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能代事件始末記〜北海哀歌〜
序章:月も射さない男達
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※本文とは関係ありません
或る夜、日本海の白波を縫って一隻のゴムボートが静かに列島へと迫っていた。櫂を漕ぐ船上の3人は、いずれも見事な体躯を寒さに縮こませ、星の意匠鮮やかなトカレフが腰に光る。
彼等の心中穏やかで無いのは、何もその身を切る様な寒さのせいだけでは無かった。沖合の母船を出発し、隙あらばボートを一飲みにせんとする海原を何とかいなしながら、海岸線に沿って行く。
雲夜の空に月の光はない。暫く故郷の土を踏む事は無いだろう。不味い煙草に火をつけると、吹き荒ぶ風が紫煙を水平線の彼方へ運んだ。
時化る海が大波を叩きつけ、母船からは暫く3人を乗せた小さなゴムボートがぬめるような闇の只中へと追い立てられてゆくのが見えたが、それもやがて消え、後にはしんと静まり返った夜のしじまの中で、波音だけが変わらず響くだけだった。
2.中距離走者の憂鬱
寺沢新の朝は早い。春うららのエイプリルフールの日、秋田工業の社員であり同社で中距離選手として活躍する彼は、その日も早くから熱心に浜を走っていた。此処は東北秋田に跨る能代平野の浅内浜。通る人も碌に居ない寂しい海岸である。
途中、寂寞とした海岸線に潮風を浴びて走る寺沢の目は、寄せる波に揺蕩う異形の物体を捉えた。
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大写真右に横たわるのが工作員の死体
小写真:「週刊現代」より
大写真:「アサヒグラフ」より
「初めは日本の遭難者、普通の我々の周囲に居る男の様に思った」
彼がそう後に語ったその物体は、折りからの時化に煽られ転覆した一隻の黒いゴムボートと、やけに恰幅の良い東洋人2人の水死体だった。しかし水を吸って膨れ腐っているという様な事は無く、そればかりか2人の肌には、まるで死んだばかりの様に赤みがさし、傷も見えず、片方は薄目を開けてさえ居た。
のちに新聞各社が便宜上AとBと名付けたこの2つの死体は、どちらも身長170cm以上、体重も60kgを超え、堅牢な筋肉のついた身体は大凡一般人では無さそうな、訓練された兵士そのものだったという。翌日、読売新聞は夕刊で彼等を「ソ連のスパイ」と報道、これは秋田県警の判断であり後に誤りと判明したが、兎に角こうして1963年の日本を震撼させた能代事件は幕を開けたのであった。
3.誰も知らない、知られちゃいけない
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1963年4月2日付(赤線部)
当時事件現場に一番乗りで到着した能代署の警官隊の1人が、最近産経新聞の取材に答えている。
秋田県北部の能代市中心街から南に約6キロ。日本海に面した「浅内(あさない)浜」に県警能代署の刑事だった伊藤京治さん(82)が到着したのは、4月1日午前4時ごろだった。
不審なゴムボートが漂着。そばに2体の死体らしいものがある。現場へ向かえ。
エープリルフールの未明に電話でたたき起こされ、からかわれていると思ったが相手の声は「嘘じゃない。これから全員に招集をかける!」とうわずっている。現実と悟ったが、「北朝鮮工作員の可能性もある」と付け加えられた情報は、にわかには信じられなかった。
(中略)
現場には単一色の軍服を着た2人の男が倒れていた。1人はボートに上半身を入れて横向き、1人は浜辺にうつぶせだ。ボートの男の腰のあたりからは拳銃の持ち手部分がのぞいている。工作員だと直感した。
「死んだふりをしているのではないか。周辺に仲間が隠れているのではないか」。そう思うと身体がこわばる。風に揺れる木々のざわめきが、工作員が飛び出してくる音に聞こえた。震えを抑えながら男らの口元に手を近づけ、呼吸を確認した。
当時の張り詰めた空気感がひしひしと伝わってくる文章だ。何とか死亡確認を終えた後は、地元民に箝口令が敷かれた上で秋田県警の刑事を呼び寄せ念入りな調査が開始された。
現場検証では早々にソ連云々の誤りが否定された。恐らく誤伝の端緒は死体の腰に見つかったCCCP(ソ連の略語)の刻印入りトカレフ・ピストルにあったと思われるが、今となっては語りうるよすがはない。
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「アサヒグラフ」より
しかし、その直後に発見された種々の物品を見れば、ソ連の工作員でない事は歴然だった。特に貴重な発見は、溺死した2人の男が後生大事に抱えていた2つのザックである。潮に揉まれながらも中の貴重な遺留品をそのままに留めていたのだ。
そしてそれは持主の出自を雄弁に語ってくれた。
中には乱数表、古めかしいラジオ、暗号書4枚に大量の偽札。替の服は全て日本製で統一され、死体の内ポケットにモラン(牡丹)の名の煙草。塩を吸ったその服が人民服で、暗号書には整然と並んだハングル文字が...と来れば、死体の故郷が何処か突き止めるのは簡単であった。
10数年前に建国されたばかりで、西側に背を向け、かつアメリカの冷戦での最前線たる日本にボート一つで上陸出来る程身近な国。
朝鮮民主主義人民共和国、北朝鮮である。
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本国から指令を受け取る為の物
「アサヒグラフ」より
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「アサヒグラフ」より
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紙幣は全て偽札である
「アサヒグラフ」より
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右に広げられた衣類は全て日本製
「アサヒグラフ」より
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暗号化されて送られる指令を解読するための物
「アサヒグラフ」より
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乱数放送される指令を解読するのに使う
換字表等と併用される
「アサヒグラフ」より
これらの物品は又、男達がどの様な立場で何をしようとしていたのか推察する手立てをくれた。
先ずは偽札である。円とドルに分けられており、両方合わせて400万円以上という大金がザックの中にあった。
更に乱数表が7本あり、前述した日本製衣類の他に大阪公安委員会発行と判を押された「金」名義の免許証まで見つかった。勿論此方も真っ赤な偽物で、ただ574318と免許番号だけは本物。持ち主は西宮に住む日本人で、以前免許証を紛失したと言うからその時に盗まれ使用されたのだろうとの事だった。
遺留品の中には地形の略図を書き付けたメモもあったが、警察の所見では浅内浜よりも北の岩館の辺りの地図に似ているらしく、其処に協力者を頼って上陸し、南下して関西方面で活動する予定だったのかも知れない。
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「アサヒグラフ」より
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「アサヒグラフ」より
上陸後の可能性について、4月4日付の毎日新聞はこう報じる。
2人は特務工作員としてもかなりの大物で、潜入後は日本でのスパイ組織の中心的人物になる予定だったのではないかとみている。
また週刊読売は400万の大金を異例とした上で、過去起きた工作員侵入事件に於いて犯人が生活資金を在日朝鮮人から調達した事を挙げ、ドル札の使い道を駐留米軍相手の買収に見た。
生活費でないとすれば、次に考えられるのは、情報を取るための買収資金である。それも日本人相手ではなく、ドルを必要とする人たち、ズバリそのものでいえば、駐留米軍の関係者ではないか、とする推定である。
どちらにせよ、免許証といい日本製の衣類といい、工作員らが日本国内に定住しての活動を目論んでいた事は明白だ。
更に5月に入ると、ゴムボートにはもう1人搭乗者が居たらしい事が分かり、能代事件報道は一年近く長続きした。10日になって、先の2つの死体の打ち上がった場所から北に10kmほど行った大関浜の川面に男の死体が揚がったのである。
第二次能代事件と呼ばれる本件で、死体は所持品や衣服が同じだった為、3人目と判断されたのだが、中にはこれを別の侵入事件と見る向きもある。今回は公式発表に従い一括りにして扱う。
これ以降も多く飛び交った論説の中で面白いのが週刊現代の紙上で展開された「謀略」説だ。
先頭に立ったのは新進作家の中園英助。インテリジェンスやスパイに関する数多くの著書を残した作家である。
彼はその豊富な知識を生かして、第二次大戦時のイギリスがナチス相手に打った大芝居「ミンスミート作戦」と能代での一件に共通点を見出した。これはシチリアでナチスの撹乱のため実行された計略で、「ウィリアム・マーティン海軍少佐」なる架空の人物に見せかけた死体を機密書類や無線類と一緒に海に流し、わざと発見させる事で恰も連合国側のスパイが既に侵入したかの様に見せかけたものだが、「身元不明の水死体」「スパイ」「暗号文と無線機」と、成る程一致点が多い。
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(第一次能代事件におけるもの)
「スパイの世界」より
中園氏は更に、遠浅で岩場の多い浅内浜を渡って来た筈の死体に傷一つ見られないのはおかしい事で、そもそも身体の測量等何一つ科学的な調査無しに所持品等から「朝鮮人」と判断したのは何故か、といくつかの不審点に探りを入れたあとで、彼らは予め計画の為に毒殺されていたのではないかとまで想像を膨らませた。寺沢の見た遺体に傷一つ見えなかったのもこれで合点が行く。北朝鮮へのバッシングを高める事が目的だ。
ではそれを実行したのは誰か。推理に2ページを割き、寺園はいよいよ結論を出す。
事件の真犯人とは誰か。
もしそういう軍事スパイが実在するとして、わたしにはそうしたおどろおどろしい服装のスパイが、いきなり迷いこんできて、日本の防衛庁係官や米軍将校とどうして親しくなれるか、信じられないのである。また、死体は1万三千六百米ドルも携帯していたが、そんな莫大な金を謀略機関がどうして死体といっしょに流すかという反駁もあるだろう。
しかし、スパイ恐怖の宣伝効果として見れば、その程度の金は充分つぐなうだけのことはあったのではあるまいか。
結局、黒幕をはっきりさせる事は出来なかったのだった。一応「謀略機関」とそれらしく呼称してはいるが、ハッキリと特定するには余りに材料が少な過ぎた。GHQも廃止されて久しい当時に、敢えてこうした謀略論を展開した氏が、どれほどまで確証を得て筆を取ったかは定かでないが、実際はどうだったのだろう。真相は闇の中だが、此れが1つの仮説として成り立つ程、事件は歯切れの悪い結末を迎える事となる。
4.スパイの輪舞の終わりと始まり
同年11月21日、秋田地方検察庁は3人をあっさりと不起訴処分にした。罪名は出入国管理法違反であり、被疑者死亡による判断であった。
この場合のように、明らかにそれと分っていても国家公務員法と米軍貸与兵器の機密に関する刑事特別法では対象になり得ない。
わずかに出入国管理令や外国為替法、電波法などを適用するのがセキのヤマとすれば、正に日本は「スパイ天国」なのだろうか。
まさにその通りだった。
能代事件は日本へのスパイ工作における、一つのターニングポイントとなる。
この事件以降、東北は多くの工作員に愛される地となり、北からの来訪者を本土へと迎える中継地点として機能する事になったのだ。
下手な鉄砲も数撃ちゃ当たる。加えて相手が撃ち返してこないとなれば、撃たない手は無い。
スパイ達はその後もどんどんと送り込まれ、検挙しても結局軽い判決が下って、釈放後は再び闇へと戻っていく鼬ごっこに終わるのだった。
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「新聞・雑誌にみる戦後スパイ事件のすべて」
より
上の図を見ると、東北地方で起きたスパイ関係の事件が能代事件以降に集中している事が分かる。
能代事件後直近で逮捕されたスパイは、同年5月21日に明るみに出た酒田事件での3人衆である。
これは拍子抜けする程間抜けな逮捕劇に始まったもので、山形県十里塚の浜でテントを張っての酒盛り中にお縄となった金永錫、安声国、李奐沢の一行は、最近酒田に移した事業の成功を祈って、日本海を見ながら晩酌を楽しんでいただけと弁解したが、安と李が釈放され、外国人登録証の偽造で金だけが逮捕されるとあらいざらいを吐いた。
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「週刊読売」より
金永錫、本名馬今鳳は1961年に日本に上陸した。
金は戦前に渡日して日本の大学に学び、終戦後に北朝鮮に戻った出戻り組で、その経歴に目をつけた当局によってスカウトされると、平壌の大学で教鞭を執っていた彼は名を変え、6ヶ月の訓練の後、在日工作員のスカウトと身分の獲得という任務を帯びて異国の地へ降り立ったのであった。
そして事件当日、やっと獲得した身分と2人の工作員志望を伴い、本国へ帰還する船を待っている所を逮捕されたという次第である。
帰国指令は持ち込んだ無線類を通して受け取った物で、勿論暗号化されていたから解読用書類も所持して、当局から活動資金も併せて受け取っていたというから、上陸時の装備は能代の3遺体と変わらなかったのだろう。
証言を元に安が再逮捕され、李は雲隠れした。金はのち山形地方裁判所酒田支部から懲役1年4ヶ月の判決を下されたが、これも出入国管理令と外国人登録法に違反された点のみで裁かれたのであり、スパイ行為に関しては最後までお咎め無しだった。
「スパイ罪がないので、無電機や乱数表も、出管令や外為法違反の証拠になるに過ぎない。あの三人もまた潜入して来るでしょう」
警察庁警備局土田外事課長は語っている。
そして状況はその後も変わらなかった。海にスパイ船あり、陸に工作員あり。更に'70年代に入ると日本人の拉致行為が本格的に始まり、日本海沿いのあちこちで人が霞の様に消えていった。それが今に至るまで尾を引き摺っている事は周知の通りだろう。最近ではロシア人スパイのアントン・カリニンが日本でIT関係の情報収集に従事した事が明らかになったが、それも国外追放だけで訴追も何も無く話題から消えた。
日本がスパイ天国である事は今も昔も変わっていない。ペルソナ・ノン・グラーダに加え対応する法律が皆無で有る事が原因だ。
能代事件の死体は、戒名も付けられずに町の外れの空き地に揃って葬られたと言う。
後には3つの土饅頭、墓標の無い墓。
草葉の陰で、3人の男達は今何を思うだろうか。
そして我々は、この話に何を思い、考えなければならないのだろうか。
答えを出さねばならぬ時が迫っている。
引用・参考文献
アサヒグラフ
朝日新聞社 1963年9月9日号週刊現代
講談社 1963年9月5日号週刊読売
読売新聞社 1963年7月7日号戦後のスパイ事件
東京法令出版 1990年新聞・雑誌にみる戦後スパイ事件のすべて
スパイ防止法制定国民会議 1979年スパイの世界 内外政治研究所編
日刊労働通信社 1968年読売新聞 1963年4月2日号・5月11日号
毎日新聞 1963年4月4日号
産経新聞 2019年10月10日配信記事
雑談のネタ帳
Wikipedia
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