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ユーフォ3期における「田中あすか大阪大学在籍説」という仮説

 拙稿の中で、いつもアクセス首位にたっているのは、

 である。
 
 「いわゆる『公安』のスパイをやっていました」
 
 「大阪府警外事警察協力者(ロシア担当、2006-2018)」
 
 という(真実性を証明することが不可能な)自称ではあるが、文章を通じて発信すれば・・・・・・という思いもむなしく、アニメ『響け!ユーフォニアム』シリーズ(『リズと青い鳥』、『きらめきパッセージ』、公式ガイドブック、サウンドトラックおよび収録されたライナーノーツを含む)を現時点(2024年6月1日)において参照できる「設定」については網羅しているつもりではある。しかし、「全て」とはいえない理由がある。
 
 筆者は、原作を読んでいない。
 『響け!ユーフォニアム』シリーズについては原作を読み込んでアニメーションを鑑賞している方が少なくない、センシティブな点だと筆者は認識している。この点については、最後のパラグラフに書いている。
 
 さて、そんな筆者に、田中あすかの住所が「上京区朝来」(ユーフォ3期第8話、25:01)であるという衝撃的なシーンがとびこんできた。ユーフォ3期第3話での義井沙里の本棚から、
 
「『ユーフォ3期』では、大学受験勉強のリアリティーは作品の設定外だ」
 
 と思っていた筆者にとっては、「青天の霹靂」とはいわずしても、「霹靂」ではある。ユーフォ3期においても「高校卒業後の進路」については前面の一つとして描写されており、元・家庭教師としては、筆者がこれに言及することができる。
 これはあくまでも私見ではあるが、いわゆる「世間」において、受験業界という一部分での言説や価値観(たとえば、「偏差値」という言葉)が過大な評価基準になってしまっては、社会的にも望ましくないと考える。
 
「たかが『部活』なんだから」
 
という田中あすか・黒江真由、そしてそれを引用した黄前久美子と同様に、
 
「たかが『学歴』なんだから」
 
 と、反論したい。
 もっとも「学歴」というのは高校卒業、学士、修士、博士といった意味で筆者は活動しており、市井において使われる「学歴」の語義とは大きな乖離がある。
 
 これについて「書く」ことに、意義はあるのか。
 
 たとえば、作品の中では、「大学院進学」につながるキャリアプラン(進路)を想起させる表現は、ほとんど、登場しない。
 もちろん、「音大」となると、大学院や海外留学なども想定されるが、たとえば『リズと青い鳥』では、「『普通の大学』か『音大』か」という設定を通して、鎧塚みぞれと傘木希美の「別れ」が描かれていた。
 大学受験業界の観点からすると、「背理法を通じて『互いに素』を記述式で回答させるセンター試験(現・共通テスト)」が爆誕していた。すなわち、大学受験勉強のリアリティーについては、作品の鑑賞対象外だと筆者は解釈して、『リズと青い鳥』を鑑賞した。
 これらは「音大入学後(の進路)」の世界観が想像できるので、「こんなこと」を書く第一の意義がある。
 
 第二の意義について。「インテリジェンスに些少なりとも関わった経験者として『ユーフォ3期』を鑑賞すると、このような見方がありうる」という問いかけを、文章を通して発信したかった。これが第二の意義だが、後半部分において展開する私見については、多くの読者にとって「退屈」だと思われると想定されるので、画面をスクロールして最後のパラグラフ(「原作」を読んでいない理由)だけは目を通していただければ幸甚である。
 
 『響け!ユーフォニアム』(久美子1年生。たしか第2期だったと思う)では、黄前久美子が田中あすかの部屋に招かれて数学を教わるシーンが登場する。そこで、田中あすかの本棚がうつりこむわけであるが、「アニメーションにおいては、『描く』という行為をしなければ、『(偶発的に)うつりこむ』という現象は、発生しえない」(大意)という、京都アニメーション・プロ養成塾のブログに接したことがある。
 だとすれば、田中あすかの本棚を通して「大阪大学志望校説」は、それなりに、元・家庭教師(大学受験担当)としての筆者が書く意味があるだろう。
 
 田中あすかの進路については、一般受験(推薦受験ではなく、筆記試験)での大学進学。それも、田中あすかの母親の価値観に「逆らわない」(筆者私見)という範囲での、全国模試において「全国30位以内」という「結果」をもって、あすかが「ユーフォニアム演奏(部活)をつづけたい(全国大会に出たい)」という本懐を、母親を説得するというストーリーが読み取れる。
 なお、「読み取れる」などの婉曲表現を用いたのは、アニメーションという作品の世界の中で、直接的に描写されていたわけではなく、鑑賞者の想像力に働きかけるという「表現」だと筆者は認識しているからである。
 
「京都府宇治市内にある公立高校(府立高校)だから、田中あすかは『京都大学』に行くのだろう」
 
 定石通りに考えれば、田中あすかの進学先は、「京都大学」と解釈するところだろう。だが、田中あすかの本棚を見る限り、「『成績が下がった』ならば部活をやめる(という条件で母親とおりあった)」や、「ユーフォニアムを吹くために、必死にやってきた」という表現から察するに、田中あすかの志望校の設定が京都大学だとは思えなかった。
 鑑賞した当時に、筆者は、「田中あすか 志望校」でググってみた。そうすると、「私(斎藤葵)の『志望校』は、あすかの『滑り止め』」だという、少なくともアニメーションの作品設定では登場しない言説に出会った。
 
 少なくとも、斎藤葵には、「志望校」がある。
 それも、田中あすかの「滑り止め」として。
 おそらく、田中あすかの母親の許容範囲内として。
 
 では、(田中あすかの母親の価値観をくぐり抜ける)「志望校」と「滑り止め」を両立させる大学は、どこなのか。
 
「京都府宇治市内にある公立高校(府立高校)だから、京都の地元事情が反映されて、田中あすかの志望校は、『京都大学』だろう」
 
 このように、普通は、考えるだろう。
 ここで、元・家庭教師の筆者のインテリジェンス能力が違和感をとなえる。
 
「田中あすかの自室の本棚には、『英文解釈(和訳)』の教材はあるが、『英作文(英訳)』の教材がない」

「斎藤葵は、『志望校』に合格するために、受験塾で数学の授業をうけている(音声で「最大値」か「最小値」といった声が聞き取れる)」

 田中あすかの趣味は読書。
 とはいえ、京都大学が出題するレベルの英作文にたえうる「英文読書経験」を体得できるとは、思われない。筆者の判断基準になったのは、久美子(1年)を自宅に招いた際の待ち合わせ場所となった、北宇治高校の玄関・ゲタ箱。
 あすかが手にしていた本を、「おもしろかったら貸してあげる」と久美子(1年生)へのセリフが登場するが、高校3年生と高校1年生が「おもしろい」という感情を共有できるレベルの英語力が、二人にあるならば受験生あすかの英文読解力が不安になるし、「逆」の場合であれば(久美子の英語読解力が「高校1年生」ではなく受験生とわたりあえるほどの)ものであれば、「『数学』に苦手意識をもつ」という久美子の学力をどのように説明するのだろうか(わざわざ、久美子が「進路」について悩むだろうか)。

 むろん、「説明する」ということは、不可能ではない。
 北宇治高校が、いわゆる「県内トップの公立高校」という場合である。しかし、そうであるならば、斎藤葵の「高校受験では志望校に行けなかったから、大学受験では絶対に志望校に合格したい」というセリフによって、くつがえされるだろう。
 
 ちなみに、「『志望校』という概念が存在しないレベルの進学校」というのは、存在するかもしれない。
 手前味噌でいうと、筆者(1980年3月生)の場合は、大学卒業後の「進路」から(我流で)逆算して、「大阪市内の中高一貫・男子校」から「政治学」を志し、「京都大学法学部」を志望校にしていた。センター試験(当時。1998年1月実施)の数学IIBで28点(100点満点)を記録してあきらめるまでは。
 「『進路』から『(我流で)逆算して』という表現」にしたのには理由がある。「社会保障政策に関わるために官僚になりたい」という志望動機があった。当時は官官接待など、高級官僚への接待・汚職が問題となっており、その報道を通して「国策を担うことができるのは、霞が関の官僚」という価値観をもち、「一番の難関大学で『政治学』を学ぶことが不可欠だ」という、当時としては「珍説」に迷い込んでしまったからである。さすがに、霞が関のキャリア官僚になる母集団としては、東京大学法学部が最も多いということは知ってはいた。
 とはいえ、国I(コクいち、当時。現・国家総合職)の中では、「行政」ではなく「法律」での受験区分が主として採用される科だとは思いもしなかったし(大学生活の中で知ったが)、「大学に行くのはなぜか。『政治学』を学ぶためである」という自分で考えた「空論」にそって考えれば、「東京大学法学部の受け皿となっていた(当時)『文科I類』に限らず、東大では2年間かけて教養課程を学ばなければならない(政治学を学ぶ時間があまりにも短い)」という結論に達した。
 間違ってはいないけれども、「志望校は、東京大学か京都大学しか許されない。ただし、医学部であれば親は了解する」という駿台同期のもらした、「『志望校』を選べるお前(=筆者)が『羨ましい』」という、価値観に接するまでは疑問をもたなかった(1998)。
 そのように育てられた筆者(1980生)。少し上の学年、あるいは5年から十年前後の「上の学年世代」の価値観が田中あすかの母親の世代だと思われる(長女?、が2015年に高校3年生)。おそらく田中あすかの母親の「『幸せ』という『枷(かせ)』」を「我が子の大学受験」に反映され、そしてその「枷(かせ)」に反することなく、ユーフォニアムを吹き続けて全国大会会場で届けたいメロディーを発したのが「田中あすか」ではないだろうか。

 本稿を「書く」という第一の意義は以上である。
 第二の意義について。 

 このnoteの執筆者は、何がしたくて、このような「俺理論」を展開しているのだろうか。いくつかのパラグラフに言及した、「第二の意義」である。
 それは、北村滋(2023)『外事警察秘録』(文藝春秋社)に次のような記述があったからである。筆者が2006-2018にかかわった、外事警察の協力者として、少なからず違和感と共感を抱かせるものだった。
 
「東大、京大、東工大等の大学や大学院で高度な研究を重ねた者も存在した」(同書、p.112)
 
「一般に(中略)データと分析結果は、(中略)分析官の手法や技量までもが共有者に漏れる可能性があるとされる」(同書、p.176)
 
 p.112については、おそらく大学受験業界でひきあいにだされる、いわゆる「偏差値」に逆らわない形での記述なのだろう。しかし、大阪府警の都道府県採用の警察官(いわゆるノンキャリ)のカウンターパートの筆者からすれば、「『大阪大学』ではなく『東工大』という記述はなぜなのか」という疑問に答える必要があるだろう。異端扱いされていると自分でも認識こそしているものの、いちおう大阪出身者として(関西出身者を名乗れるかは疑問だが)。
 筆者(1980生)は、「志望校は京都大学」といっても相手に「は」されるレベルだった(高校生時代。1995-1998、なお駿台で一浪している)。受験業界でいう「文系」の同時代の部分社会(高校生活圏内)の評価では、
 
「医学部を目指すならば、京都大学医学部よりも大阪大学医学部の方が良いらしい。なぜならば研究成果は大阪大学の方が世界的に評価されているから」
 
 という言説が存在した(90年代後半)。
 
「大阪大学医学部を卒業した医師」
 
 この威力を市井において感じたのは、筆者が、鴫野駅(しぎの駅)近くの雑居ビルにかまえる開業医に父をともなって訪れた時のことだ(2020年頃)。待合室には「大阪大学医学部」という名前とともに、所属した(卒業した)と思われる研究室の名前が刻まれた時計があった。
 筆者の見た限りでは「同期生が開業祝いにお金を出し合って贈った」ような、高額ではなさそうな振り子式の時計だったが、それが、おそらく医師の信頼のよりどころになっているように思われた。少なくとも、筆者の父への大阪弁対応は万全だったし、「大阪大学医学部では、『開業医としての経営ノウハウ』が共有されているのではないか」と筆者をして思わしめたくらいである(もちろん半分冗談であるが、「医学部」という同業者がたくさんおられるのだから、あながち冗談ともいえない)。
 ちなみに、筆者が市井において「大阪大学医学部」の威力を目にしたのはあくまでも鴫野駅(大阪市城東区)であるので、同じ大阪市内でも大阪市南部では「大阪市立大学医学部」と書かれた記念品が集客につながっている可能性もある。大阪大学と大阪市立大学(当時)の所在地を根拠にした、地理的な意味で。
 
 ただし、生物兵器の開発という観点からではなく、昨今報道されることの多い「経済安全保障」を念頭にインテリジェンスの観点からいえば、「東京工業大学」の名前を著者の北村滋氏があげる理由は別にあると思われる。
 同書(北村滋(2023)『外事警察秘録』文藝春秋社)の同ページ(p.112)で東工大と記した理由。それは、ひょっとしたら、東京工業大学と防衛大学校の沿革経緯にあるのかもしれない。ある時に疑問をいだいて、酒の席で名刺交換をした際に防衛大学校教授に尋ねたことがある。
 
「大学校入学試験について。文系よりも、理系が数倍多いのはナゼですか」
 
 その時に答えられたのが、東京工業大学と防衛大学校の沿革・経緯だった。
 
 酒席ですんなりと「納得」してひきさがるご回答だったが(「酒席」といっても学会終了後の懇親会の後の「三次会」だが)、研究者として沿革・経緯を調べるならば、とてつもない労力を要するご回答でもあるので、筆者は「酒の席での話」として注記しておく次第である(それに相応するだけの研究活動を行っていないのに、注記なしで公の場で言及してしまうのは不適切であると認識している)。
 
 では、先に引用した、同書・後者(北村滋(2023)『外事警察秘録』文藝春秋社)については、どのように筆者(神谷英邦(KAMITANI Hidekuni))は読んだのか。
 
 共感できる。
 余談にしては重要なことだが、防衛大学校には神谷万丈(かみや・またけ)先生という高名な先生がおられるので、まかりまちがってご迷惑をおかけすることのないように、神谷(KAMITANI)というフリガナをつけた。
 
 相手(たとえば、敵対的関係・友好的関係にかかわらず、カウンターパートといった個人を対象にしたもの)の「内在的論理」という言葉を持ち出すわけでもなく、どのような教育環境・勉学経験をへてそのような論理構成になるのかということを知るには、出身地や学歴は、判断材料の一つになる(さらにいえば、受験業界での偏差値は「全く参考にならない」といっていい)。
 
「この人は、相当有能な方だな」
 
 と思った方の中には、「私は高卒なのです」という方もおられる。
 
 インテリジェンス業界では、当然のことながら、「ウソ」も飛び交う。
 意図的な「ウソ」でなくとも、誤解にもとづくものもたくさんある。
 筆者も、「ウソ」におどらされている弱点は、必ずあるだろう。
 
 こんなことをいう、「『公安』の協力者」を自称する人物がいた。彼の名前をX氏としよう。高名なY先生の名前をあげてこう話したことがある。
 
「私の妹が、Y先生と大学では同じ語学のクラスだった」(口頭、一部加工)
 
 X氏の情報は、いつもどことなく信頼性に欠けていた。それに、「公安」といっても、どこの「公安」なのか。いちおう「公安調査庁」という答えをいただいていたが、公安調査庁の名刺を差し出した(多分)ホンモノの公安調査庁職員とも「匂い」が全くちがう。
 試しに尋ねてみた。X氏は「Z大学出身」と自己紹介していたので、質問を返したのだ。
 
「Xさん。妹さんは、Z大学出身ですか」
「そうだよ」
 
 公安調査庁(?)が組織としてどのような「会社」なのかは別として、「協力者・X氏」のもたらす情報を信頼することはできない。名前を出されたY先生は、たしかにZ大学の有名教授ではあるが、出身大学は、P大学だ。新聞の論説記事やインタビュー記事では経歴が書かれてあるし、なによりも、筆者はY先生と公私にわたってお世話になっている。
 もっとも、「協力者・X氏」が信憑性に欠ける情報をさかんに発信する人物として公安調査庁が「運営」しているのなら話は別になるが。
 X氏も出席していた、とあるシンポジウムでのこと。報告者の時間が余ってしまってしまった時のことである。余興として、シミュレーションをどのように行うのかという、分析手法についてレクチャーをされた。
 数学の話になった。大学受験レベルの文系数学では、確率・期待値・確率分布をそれなりに勉強していれば理解は可能である(高校課程数学の範囲内である)。当時の大学受験事情を考慮すれば、「確率分布」を習得する機会はなかったかもしれないが、たとえば統計学の大学学部用のテキストを読んだ経験があれば理解可能なレベルだ。
 
「さっぱり、わからなかった」
 
 X氏が、二次会で、不満をあらわにぼやいた。
 おそらく本心からのものだろう。
 筆者は高校生には理解できるレベルで説明したが、X氏は聞く耳をもたない。本当に理解しようという気がないだろうし、本当に「わかっていない」のだなということは、家庭教師としての筆者の直感を基準にした。
 X氏は数学を勉強する機会を、みすみす逃していたのだろう。
 
 なお、「余興」という事故がなぜ発生したのか。報告者の責任ではなく、少なくともそのテーマのお題では「いったい、何を話すことがあるのだろうか。私(筆者)は専門外ではあるが、『公開情報』ではお目にかかったことがない『演目』だな」と思っていたくらいである。シンポジウムの構成としてはずせないテーマではあるけれども、報告する「量」がたりなかったことは事前に想定されていた。
 
 余興ついでに、トリビアを書こう。
 筆者は、大阪大学法学部卒業(2003卒)である。
 もはや世代が変わろうとしているが(2024)だが、二十余年前の記憶にもとづく「土地勘」はある。
 元鉄道少年(ダイヤ・停車駅に関心を示す)だったので、ユーフォ3期に登場した、田中あすかの住所の「上京区朝来」から大阪大学法学部はアクセス可能なのか、という点について少しは説得力を感じていただけるだろう。
 
 結論からいえば、田中あすかが、「上京区朝来」から大阪大学豊中キャンパス(法学部所在地)に通学することは合理的である。
 
 郵便番号を通じて「上京区」を調べれば、「上京区朝来」という地名は存在しない(検索日は、2024年5月31日)。ユーフォ3期の作品が設定されている2017年に「上京区朝来」という地名が存在しなかった、という可能性を100%否定することはできないが、Wikipedia等で見つけることはできなかった。
 とはいえ、田中あすかの住所の最寄駅は、おそらく出町柳駅(京阪電鉄)か、今出川駅(京都市営地下鉄)。想像力を働かせると、祇園四条駅(京阪電鉄)、より正確にいえば、河原町駅(阪急京都線)も、二十歳前後のあすかにとっては、「徒歩圏内」や「自転車通学圏内」かもしれない。
 大阪大学法学部所在地の石橋駅(現・石橋阪大前駅)にどのようにアクセスするのか(阪急宝塚線にどのルートで乗換えるのか)はわからない。たとえば京阪電鉄から大阪市営地下鉄(現・大阪メトロ)の東梅田駅(谷町線)を利用するのか、梅田駅(御堂筋線)を利用するのか。
 田中あすかが、「梅田(JR大阪)」をどのように利用するのかによって変わってくるだろうが、通学定期券の金額はおそらく変わらない。2009年に大阪から東京都町田市に拠点をうつした筆者にとっては、「東梅田・梅田・西梅田の3駅は、どの駅を利用しても『同じ駅』の扱いだった」という昔話にすぎないのであって、2017年時点においての料金形態や、同年に「大阪市営地下鉄」だったのか「大阪メトロ」だったのかを調べる気はないが。
 ただ、交通アクセスの観点からいえば、京阪宇治線より、京阪本線(少々マニアックだが京阪鴨東線)から大阪市中心部へ特急電車等で直通した方が、通学時間を読書時間にかえることができるだろう(もちろん普通電車も可能である)。
 交通費を考えて(通学定期券の値段を比較して)、あすかの下宿住所から距離は離れているが、河原町駅(京阪京都線)から十三(じゅうそう)に出て乗換えるというのも合理的なルートである。
 田中あすかが下宿する、というのも、(田中あすかが、母親と確執があることを考慮しないまでもなく)「実家を離れて一人暮らしをしたい」という望みをもつことは、年齢相応のことだと思う。作品の中でも、黄前麻美子(久美子の姉)は大学進学を期に「家を出ている」(下宿生活にしている)。
 下宿場所を京都市内に下宿するか、大阪大学豊中キャンパス周辺に下宿するか。不動産会社の賃貸契約(賃貸料と立地などの合理性)について筆者は全く知らないが、通学定期券を使って「梅田(JR大阪駅付近)」を行動範囲内におさえるのも充実したキャンパスライフを送るには有力な選択肢である。
 
 そんなことは、あすか本人が決めることだから筆者は知らないが、拙稿『田中あすか大阪大学志望校説』『斎藤葵神戸大学志望校説』を書いてアクセス数でツートップをとってしまったからには、ここは、自説に固執しようと思う。
 その「固執」がこんな長文になってしまったのは、ユーフォ3期放送期間中(2024年4月か5月)に、拙稿『公安調査庁は同業他社』という経験談とキャッチーなタイトルをつけたのに、『斎藤葵神戸大学志望校説』にアクセス数を逆転されて腰をぬかすほど驚いたのは、事実である。
 


 同情するなら、カネをくれ(元ネタ:『家なき子』(1990年代の代表的ドラマ))。
 
 外事警察の協力者(いちおう、ロシア担当)の筆者が、協力者という特殊な観点から垣間見えた、47都道府県の「競争関係」を軸に拙稿を集めた文集をご購入くださるとありがたい(アマゾンKindle)。もっとも、アマゾンの書籍紹介ページには、収録した拙稿の題名とURLを記載している。
 リンクの先に、「最後に」ではじまる、本稿の執筆動機について書いているので(本稿冒頭付近に言及した、重要なパラグラフがあるので)、ご注意願いたい。
 
 

 
 最後に。
 なぜ、原作である、武田綾乃先生の『響け!ユーフォニアム』およびスピンオフ作品を読んでいないのか。これは、筆者が自らに課したことである。
 なぜか。
 
 断片的にはアニメで描写されていない、原作にもとづいた情報が入ることはたしかである。X(旧Twitter)でのコメントでのご教示をくださったことに御礼申し上げたい。
 とはいえ、「原作を読まない」という筆者のポリシーは、原作者の武田綾乃先生や読者のみなさま、「『響け!』製作委員会2024」にかかわった皆様、同じ作品を鑑賞している視聴者の方々からお叱りをうけるかもしれない。
 小説っぽいことを書こう(学術論文ではない形で発信しよう)とは企図していたのだが、学術研究を目的とした学会に、筆者は所属している。ここで「剽窃」などの研究倫理に反する行為を行ってしまうことは許されないが、筆者には「『研究倫理に反する論文を執筆する』ことを回避する」ことができる。やってはいけないことを、やってしまうことは、おそらく、ない。なぜならば、「『やってはいけないこと』を知っている」からだ。
 しかし、原作を読んでしまうと、筆者は芸術・文学・文芸においては、「『やってはいけないこと』を知らない」ので、やってはいけないことをやってしまうかもしれない。門外漢であるからだ。
 たとえば『響け!ユーフォニアム』のあがた祭りで高坂麗奈と黄前久美子が大吉山に登るシーンがあるが、久美子(CV:黒沢ともよさん)のナレーションの、あまりにもの美しさに耽溺した。
 ああ、なんという、美しい、日本語だろう。
 筆者にとっては文体を通して「美しい」と感じたのは当時としては四半世紀ぶりであり、福沢諭吉『文明論之概略』(岩波文庫)を音読していた体験(丸山真男『「文明論之概略」を読む』(岩波新書)に従っての「音読」)を除いて、人生に三度目がおとずれるかどうかわからない「美しい」だった。
 もっとも、武田綾乃先生の「文章」(対談等の口頭収録文章を含む)には、ふれている。公式ガイドブックにはインタビュー記事が収録されているし、JAFメイトのエッセイでたまたまその文章を読んだことはある。
 しかし、アニメーションおよび「音声」というものに、可能な限り、筆者自身の筆の源泉をしばった。「『文章』としての言語化」という自らの行為を限定することで、「倫理的な不正」を避けることによって、自由になりたい。「自らの文章に責任をもつ」といえばかっこいいかもしれないが、これは筆者一人の自己満足にすぎないものであるから、ご放念いただきたい。
 筆者が2024年6月2日の「放送」を視聴するのは、バンダイチャンネルを通じて「配信」される6月5日正午以降。もしかするとNHKオンデマンドでそれ以前の時間に「配信」されているのかもしれないが(NHKオンデマンドは契約しているが)、リアタイ待機組の方にさきがけて、これまでに放送・配信された情報をもとに下記の日時をもって「拙稿公開時期」としたい。
 
 
2024年6月2日16時30分公開





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