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【ショートショート】オーボエの赤ワイン煮

 音楽を奏する者にとって、緊張とは良きパートナーでなければならない。
 たまたまだった。ネットで「オーボエ 個人レッスン」と検索した。彼女はエメラルドグリーンのドレスで、オーボエを頬に添え、モナリザのあの微笑みで私に「おいで」と語りかけている。
 艶やか、しかも何て慈悲深いのだろう。クラシックの女性音楽家は概して美人だと相場だが、ピアノやヴァイオリンは神経質すぎる。主旋律を奏で柔らかさもあるオーボエは、まさに私にとって天上の楽器となった。楽器は人格を映す鏡なのだ。
 あなたの唇を奪いたい…。不純な動機は、自然と私をレッスン室へ誘った。
 築40年。壁紙が所々剥がれた、4畳半の湿った密室に30代独身男女2人。妙な緊張のせいか壁紙がほんのりピンク色に映った。
 最初の難関はリードの音出しだ。世界一難しい楽器とギネスに認定されるだけあって、なかなか音が出ない。
「下唇を丸め、リードは浅く銜(くわ)えるのよ」
 リードを肉感的に巻く先生の下唇に、我を忘れ釘付けになった。さらに、 
「もっとミの薬指は下よ」
 私の薬指の上に先生の指が添えられ優しく下の正しいホールへスライドさせられる…。
 ああっ…、私の鼓動はみるみる高まり、アレグロとなった。同時にキーを抑える指が震えだした。意識すればするほど、指は言うことを聞かず、空中で小刻みにトレモロする。
 禁じ手とは分かっていた。でも仕方がなかった。次のレッスン。水筒にボルドー産赤ワインを注ぎ込んだ。いざ、レッスン直前。「神にご加護を、震えませんように」と心の中で祈り、赤ワインをゴックン。染み渡る。
「ブッ、ブー」
何で?私のオーボエはまるで醜いアヒルのような鳴き声だ。
「顔、赤いけど風邪?大丈夫?」
「あっ、いや…」
「…。力まず、音を背中から外に飛ばすイメージで。はい、どうぞ」
 視線を手元のキーからドアに向けた。

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