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子どもの「鉛筆騒動」から自分の傾向が見えた話

この時期になると、やっぱり思い出す、次男の「鉛筆騒動」。

小学校に入学して1週間。
学童保育に次男を迎えにいくと
ランドセルの中から鉛筆の入っていない、
空っぽの筆箱を発見。

「あれ、鉛筆は!?どうしたの??」
と私が聞くと、次男は
「学校に置いてきた。だって明日、学校に持っていくのを忘れたら困るでしょ」
と自慢げに言う。

「ならばなぜ、筆箱ごと置いてこない…」
と思ったのだか、
次男のこの発想には、相当びっくりした。

私の中には、学校には
決められたもの以外置いてはいけないので、
必ず毎日、教科書・ノート・筆記用具は持ち帰らなければいけないものだった。
学校に置いておくという発想は私にはない。

けれど、そんなことは微塵も思ってない次男は、自分で考えた結果、
「学校に置いておく」
という決断をしたのだ。
それを周りのみんながやっているかやっていないかは別として。

かつては私も、みんなが当たり前にしていることは
何も考えずに「そういうものなんだ」
と思い込んでいた。

みんながやっていることは
私もやらなければいけないことだと思っていた。

よく言えば素直。
悪く言えば疑問を持たなかった。

大人になってからも長い間、この性格は続き、
自分に柔軟性がないことはわかっていたのだが、加えて
「何事も馬鹿正直に信じてしまう」「疑問を持たない」
ということに気づいたのは、ここ5、6年のことである。

今はようやく、
物事を色んな視点から見ようとする姿勢が出てきた。
なのでネガティブなことが起きても
ポジティブに考えられる面も探せるようになってきた。

決まり事があると
知らず知らずのうちに、
それが”当たり前”になっていて、
なぜそうなっているのか、自分で考えることをしなくなる。

世の中のルールも同じかもしれない。

なんで学校には制服があるのか、とか。
なんでエスカレーターでは片側に寄るのか、とか。

これからも新しい「当たり前」は増えていくと思う。
けれど、そこに自分の考えを持ち、行動するのと
ただ流れに従っているのでは違うと思っている。

キチンと自分の考えがあり、その考えを述べられ、
それが単なる自己中心的ではない人間に
私はなりたいなと思っている。

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