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刺激は自分の内側にも満ちている

一念発起で上京した2012年。私は東京で初めてのセミナーを開催してへろへろになりながら恵比寿に向かっていた。それは東京で出会った同世代の友人が主催していた交流会で、女性起業家やフリーランスなど業界で活躍する威勢の良い女性たちが恵比寿のバーで集まって交流しようというもの。当時の私は僅かな人脈を辿って東京へやってきたものの、根っこは大阪市都島区の谷町線ユーザーだし、お金はないし、毎朝休まず経営学のブログを更新することだけで自分を守っていたし、華やかな世界とはかけ離れていた。

セミナー帰りのくたくたのスーツ姿で、経費節約のために自分で会場に持ち込んだプロジェクターを抱えてバーに飛び込んだ。運ばれてきたシャンパンも、すでに「何者か」になっているように見えるワンピース姿の皆さんも泣きたくなるぐらいに別世界。恵比寿で女子会という華やかな響きに憧れた自分を呪った。今すぐここを抜け出して串カツ屋でビールを飲みたいな? と、顔に出ていたかどうかは分からない。

そんな眩しい女子会で、明らかに場違いなテロテロのTシャツを着た女性がいた。思い切って話しかけてみると、同じ大阪出身で今年の春に上京したばかり。彼女のアートに関するキャリアはよく分からなかったけれど、学生時代からしゃかりき活動していた熱量とそのエネルギーを会社員として持て余していたことは早口な関西弁から伝わり、私たちはすぐさま意気投合した。

それが、友人 塩谷舞 との映画みたいな出会いだ。

その後、彼女とは週末ごとに会うようになった。お互いの彼氏にも紹介しあったし狭いマンションの部屋にも遊びに行った。色々な欲望を我慢してデスクに向き合うことが正義だと信じて止まなかった若い私たちは、夜9時過ぎに「お腹すいてない?」と Messenger で連絡しあう。「行こ」「一時間だけ!」そんなやり取りの10分後には、お互いのオフィスの間にある店で待ち合わせしてさくっとご飯を食べ、約束通り一時間後には「じゃ!」と手を振ってお互いのオフィスに帰った。今日もオフィスに泊まりか〜 という日々。その日はクリスマスイブだった。

当時を振り返って「私ら、完全に東京に酔ってたよなぁ」なんて笑うけど、「会社に行けなくなったからしばらく実家に帰る」と彼女から適応障害の診断書の写真が送られてきたのはその数ヶ月後だったし、私が「会社も事業ももうダメだと思う」と漏らしたのはその年末だった。

大学時代から「なんでそんなに頑張るの?」「適度に力を抜いたほうが」と言われるたびに聞こえないフリをして、孤独は成長している証拠だと自分に言い聞かせてきた。多分それは彼女も一緒で、だからこそ自分が頑張れば頑張るほど応援してくれるお互いの存在があまりにも宝だった。未熟なビジネスプランを発表しあっては「それ最高!」「めっちゃええやん!」「絶対うまくいく」と全肯定しあった。

当時、自分には突き進むしかないのだと思い込んでたのだ。迷えばきっと立ち止まってしまう。悩めばきっと辞めることを選んでしまう。そんな自分が怖かった。見せかけばかりの外向きのビジョンと弱気な心の内、そんなことをいちいち説明しなくても分かってくれる初めての友人と、おしゃれなカフェで会うたび大阪弁で喋り倒した。

それから数年後、彼女は人々を惹き付ける持ち前の文章力でバズライターとして活躍し、勤めていた会社から華々しく独立した。一方の私は立ち行かなくなった事業を畳んで会社を休業し、道玄坂のスタートアップ企業の広報や法人営業として働いていた。毎月決まったサラリーをいただくことのありがたみをしみじみ感じながら、だけどあのクリスマスイブの夜の牙が抜けてしまったような、彼女と会うたびに語り合った野心はどこに? という気持ちが確かにあった。

そんなある時、彼女から「私が手伝っているお菓子の会社が台湾に店を出すことになったんだけど、現地のPRイベントのレポートとか書いてみない?」と声をかけられる。台湾の大学に交換留学していた私の過去を知った上でのお誘いだ。台湾が大好きという気持ちに蓋をしてがむしゃらに働いていた私は、彼女のそんな一言で約7年ぶりに台湾を訪れることになった。久々に降り立った空港で感じた台湾の匂い、この7年ですっかり変化した台北の景色に、心の奥底にしまっておいたはずの野心が火を噴く。「なんでこんなに大好きなのに、我慢していたんだろう? やっぱり私は台湾に関わる仕事がしたい!」と帰りの飛行機で目頭を熱くしながらノートを書きなぐっていたのを覚えている。

その数ヶ月後、私は彼女の背中を追いかけるように独立した。

休眠させていた会社の社名を変えてゼロから再スタートを切ることに。業務委託としてオウンドメディアの運営などの仕事を受けながら、台湾関連の企業のPRやウェブメディアの編集長を務め、今では自分の名前で台湾のガイドブックを出版するまでになった。大学時代からモヤモヤと悩み遠回りしながら、目指していた ”何者か” にようやくなれた。これは錯覚かもしれないけれど、一時的なものかもしれないけれど、それでも私が水を得た魚のように働けるようになったのは確かだ。今ならあの恵比寿の女子会で胸を張って、自分の仕事を語れるのだろう。

彼女はことあるごとに私の事業や活動を褒め称えてくれる。メディアの成功事例として彼女が登壇するセミナーにゲスト出演させてもらったこともあった。だけどよくよく考えてみれば、すべてのきっかけは彼女が声をかけてくれた台湾のイベントレポートだったのだ。

(その当時、会社員の傍ら書いたイベントレポートがまだ残っていたよ)

(彼女とともに過ごした人生の転機があまりに多すぎて、前置きがすっかり長くなってしまった…!)

そしてようやくここからが本題。
そんな大切な友人が、初めての著書を文藝春秋から出版した。

親しい友人のエッセイなんてまるで家族みたいに気恥ずかしいものだが、ドキドキしながらページをめくる。彼女のエッセイで登場する上京したての1Kの部屋も、眩しすぎる三軒茶屋のマンションの間取りも、そして彼女の故郷である千里ニュータウンや、FM802のジングル、DJマーキーの声も。どれもこれもが馴染み深くて胸が苦しくなる。

幼少から学生時代、上京、社会人経験、フリーランス、NYへの移住を経て、彼女が経験してきた転機や悩みを活字で疑似体験しながら、当時の彼女との会話が頭に浮かんだ。自分の物語も生々しく思い出される。

こういうジャンルのエッセイで、と枠にはめるのがどうにも難しい。だけど彼女が世の中の騒々しいニュースや時代の変化を受けて深く思考したことや、日本でのバズライターとしての生き方から遠く遠く離れて、NYやダブリンの街で巡らせた頭の中身はどれも葛藤に満ちていて、美しくて、同世代として刺激を受けた。正直、自分の思考の浅さを情けなく感じるほどだ。

だけど、

「異なる視点を持つ友人が一人いる」
ー それくらいの感覚で、読み進めていただければとても嬉しい。

と、まえがきに書かれたその言葉になんだか少しだけ安心して、肩の力を抜いて読み進める。彼女が世界中で出会った友人から学んだ発見はどれも新鮮で、そんな貴重な学びを本を通してシェアしてもらえることがありがたい。今の私はNYにもダブリンにも行けないし、見て見ぬふりをしている環境問題をはじめ、世界で起きているさまざまな問題に目を向け深く思考する余裕もないものだから。サステナブルな世界に貢献するために、鏡の目の前の自分から、小さなアクションを起こせることは素晴らしい。

彼女が留学先を選ぶワンシーン。 ”雨の多い街、ダブリン” という響きを魅力的に感じる彼女は、相変わらず私とは真逆の人間だけれど、

他の候補地はどこも魅惑的なビーチやナイトクラブが自慢で、開放的になりきれない私には来世にとっておきたい目的地だった。

と表現するあたり、クスッとしてしまった。「苦手、嫌い、私には無理!」 をこんな風に表現できるのは、周りに馴染めない違和感を抱えながらも上手に生きていく術を心得ているからに違いない。

ちょうど昨日、中目黒のおしゃれな書店でサイン会をする彼女の姿をSNSで見かけた。

ぼろぼろに働きながら週末にランチをしようと、9年前に待ち合わせたのは確か同じ中目黒駅だったけれど、あの頃の私たちが今の私たちを見たらどう思うだろうか。ああ夢みたいと感動するよりも、「ほら絶対うまくいくって言ったとおりやん!」と自信満々に笑うに違いない。それが東京に酔う23歳というものだ。

あれから9年後、私は3歳と1歳の子を持つ母親になった。昔のようにフットワーク軽く海外へ行くことも、夜中まで飲んだり、人に会ったりすることも随分減った。そのことを時々ものすごく歯がゆく感じるけれど。

刺激は自分の内側にも満ちている

一緒に駆け抜けてきた友人が綴った言葉。その一言が書かれたページの端を、子どもたちが騒がしく走り回る部屋の隅で、私はそっと折った。

いつだって全力な彼女の生きざまを、これからも変わらず全肯定しながら見守っていたい。


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