夜の玄関
夜、しんとした玄関にひとり座り込む。
その日履いた靴を労う時間だ。
まず、靴底を除菌のウエットティッシュで拭う。
ついでに、三和土も一面拭いておく。
コロナで騒がれるずっと前から、そうしている。
靴のおもての埃をブラシで払い、それぞれに合ったものを布に取って─これはエナメルだから泡、こちらはカーフだからコロニルのクリーム、という具合に─丁寧に、磨いていく。
顔の手入れと同じ。
ヒールが削れかけているのを見付けたら、あぁ、明日会社帰りにミスターミニットのお世話にならないと、と思う。
いくら素敵な靴を履いていても、削れたヒールで金属音を鳴らしては台無しだから。
私の足はみにくい。
そんな足を包み隠してくれる綺麗な靴が好き。
夜、靴と向き合う習慣は、中学入学とともに始まった。
小学校の頃よりちょっとよい、リーガルのローファーが嬉しかった。皆同じ制服に袖を通すから、足許だけは誰にも引けを取りたくなかった。
帰宅して勉強しない日もあったが、靴磨きだけは欠かさなかった。ついでに、父の靴も手入れをした。
大人になり実家を出て、ほんの短い期間、自分以外の靴が玄関に並んだ。彼の見ていないところで、その靴も磨いた。
もうその部屋には戻らないと決めたとき、初めて言われた。「君と暮らし始めて、靴がね…朝になると綺麗になってたんだよ。どうして?」
どうしても何も、そこに靴があったから。
それ以上でも、それ以下でもない。
今夜も靴を確かめる。
その靴底が踏んだ道、場所を振り返る。
制服の頃のローファーは、意外と色々な場所を知っていた。授業が終わり予備校に行くまでの間、あちこちに寄り道をした。
スニーカーは、土を知っている。御嶽神社へと続く330段の階段も知っている。
ルブタンのハイヒールは、ふかふかの絨毯を踏んだことがある。彼女は、アスファルトの道を長時間歩かされるのはお好みではないようだ。
最近履く靴たちは─こんなご時世だから─同じ道の往復ばかりでつまらないと、不満げに見える。
そうだね、そろそろ、違う場所に足を踏み入れてみようか。
シュークローゼットの扉を閉めて、靴との会話を終わらせた。
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