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女子トイレにて

女子トイレでは、いつも父の顔が心をよぎる。

職場の入るオフィスタワー、共有部の女子トイレ。
洗った手を勢いよく振る人。飛沫が鏡に水玉模様をつくる。
パウダーファンデーションを叩き込む人。落ちた粉が台に肌色のまだらをつくる。
手を拭いたペーパータオルは、ゴミ箱の中に入らず回転式の蓋の上に積み重なる。
「それは捨てたんじゃなくて、置いたんだよね?」

* * *

七歳の頃だったか。
洗面所で歯を磨き、顔を洗う。
さっぱりしたと自室に戻ろうとすると、頬がいきなり熱くなり、一瞬視界が奪われた。

「てめえの顔だけ綺麗になれば、あとはどうだっていいのか!」
仁王立ちになる父に竦み上がる。
洗面所を振り返ると、鏡には水滴が飛び、台にも水溜まりができていた。
ついでに、床には梳かした髪が落ちていた。
自分が気付かなかったことの申し訳なさより、恐怖から鏡を拭い、髪を一本一本拾った。
這いつくばると、今度は床にも水玉ができた。

追い討ちをかけるように父は言う。
「俺が厳しすぎると思うだろう、でも大人になって出る社会はもっと厳しいんだからな」
ランドセルを背負って間もない子供は、洗面所の使い方がだらしなかったばかりに、未だ見ぬ社会に怯えることとなった。

* * *

やがて実家を出て、多くの人と出会う。
緊張して臨んだはずの社会に、拍子抜けした。
多少の悪意に晒されることもあったが、関わりを深めれば、概ね皆優しく(少なくとも穏やかに)接してくれた。
「社会より、お父さんの方が厳しかったよ」

女子トイレでそんなことを思い出しながら、人が退くのを待って残された水玉模様と、肌色のまだらをこっそり拭う。
入ってきた同僚にその姿を見られた。彼女は驚いたように言う。
「それは、お掃除の人の仕事だからいいんだよ」

水玉模様をつくる人や、肌色のまだらの作者、同僚について「だらしがない」と言うつもりは毛頭ない。
彼女たちは、泣きながら洗面所の床に這いつくばったことがないのだろう。
ただ、羨ましく思う。

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