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イラストレーションを1年見て感じた問題系 ――生成AIの時代を前に考えるためのブックリスト


このnoteは、1年ほど事情があってイラストレーションについて調べていた人間が、これから先、どのように絵を見ていくかを考えたnoteです。
絵が1年見ただけでわかることはあまり多くないと思います。
もしも良い資料などあればご教授ください。


生成AIの裏の問題 ーー「絵を描く過程」をないがしろにしていいと思われたこと


イラストレーションの話題を調べ始めたころから、生成AIの話が盛んに問題になってきた。特に、ほかの人の絵を勝手に真似る生成AIの脅威は、著作権とのかかわりで議論が続いている。

ここでは違う視野で生成AIの問題を考えたい。
私が実際イラストレーターの方と話して驚いたのは、その素材やモチーフに対する徹底的な資料集めだった。正直SSS Re/ariseの展示会などに出かけた時は、紙に触った時に「これまでここまで考えていなかったなあ」と思い知った部分がある。

このようなモチーフや素材を考える過程は、絵描きさんにとって大事な時期であり、間違いなく答えのない苦しみがあるかもしれないが、その中で自分の形を見出す大事な時期である。
生成AIではこの過程が見えない。特にIT側の技術者にとっては厳密には違うとも思うのだが、少なくとも絵描きの人にとってはそう見えることがあるだろう。



千住博さんの本から ――美術はおもしろいものを見つける手がかり

「みなさん、最初に申し上げますが、美術館は決して重苦しいところでもないし、権威的なところでも、つまらない場所でもありません。そして、絵は恐れ入って見せていただくものではなく、楽しみながら面白がって「読んでいく」ものです。(中略)「おもしろいものを見つけてやろう」という気持ちで美術館に入っていきましょう。美術館とは勉強するところではなく、発見の場なのです。」

千住博『ニューヨーク美術案内』第一章 メトロポリタン美術館

日本画家であり、元京都造形芸術大学学長の千住博氏はその著書の中で、繰り返し、一般の人にとって画家が遠い存在であるように語られやすい現状について嘆いていた。
千住博氏は著書『ニューヨーク美術案内』の中で、なるべくわかりやすい言葉をもって、美術館を画家がどのような言葉で見るかを手ほどきする。絵の照明はあえて直接当てないといった具体的な絵の洞察を行ったうえで絵を見る心がけをひとつひとつ教える。

〇絵の中には作者が残した、作者自身を語る手がかりがある
〇人から教えてもらうのではなく、自分で身に着けていくものだけが心に残る
〇答えは作品の中にある
このような考え方がなぜ千住さんの中にあったかを、丁寧に言葉を尽くして語る。特に絵は見るたびに何回も姿を変えるものであり、それを時間をかけて何回も見返す大事さが説かれている。

実は、これはSNS時代におけるイラストの扱い方と逆行するものである。
知り合いのイラストレーターさんが、一般の人が絵を見ていいねをするまでに要する時間は「7秒」くらいだと自嘲気味に言うのを聞いたことがある。その時私は、ここに現代の絵描きの悲劇があるのではないかと考えている。

千住博さんと、イラストレーターの米山舞さん(雑誌内で)はともに著書で「絵はコミュニケーションである」ことを強調して語っている。そして、それはたしかにキャラクターとか物語を読み取れることがあるかもしれない。
しかし、そこに込められているものは、画角や色の相対的な選択の中に、じっくり読み解かないと発見できないものも含まれてくるのである。
そして、その発見がただの言語のコミュニケーションを超えた、運命的な出会いとしてその人に迫ってくることもあるだろう(他の人には些細な違いだとしても)。

一方で今のSNS環境は、一瞬で判断されることを前提に組み立てられる世界になっている。それが必ずしも悪いわけではないが、やはり「一瞬でよい絵とわかる絵」がある一方で、「ずっと家に飾っていて、お守りのように大事にする絵」があってもいい。そうした、いくつもの絵のコミュニケーション空間が存在するのが望ましい。(これは、ポップイラストの世界で個展がブームになっているのと結びついていると感じる)
そのように、いくつものタイプがあってしかも月日と共に、絵の意味も変わっていく。そうした洞察の積み重ねを言葉にする必要がある。
生成AIでは見ることはできないのは、そうした「過程」である。


生成AIで絵を30万枚作ったjun5555氏は、その絵に「伝えたい動機」や「意図」がないことを改めて認識していた。


問題の解決法 ーー過程の楽しさを少しずつ見せること/インスタントな楽しみ方を変えること、そして絵を競争の道具にしないこと


白状すると私は絵がうまい人間ではない。
図画工作の時間に絵を笑われて以降、あまりそういうものを描く時に
始める前からためらってしまうタチである。
さらに悩んでいたのは、絵描きさんがかなり絵の良さに対してアグレッシブな言葉を並べることが多いことだ。実際にお前は絵を判ってないと言われたこともある。
ただ、逆に複雑な気持ちになることも多かった。それは私が好きな歌の世界は弱いものいじめをやめるために思想的な戦いをしてきた歴史が長いからだ。ビートルズも、マイケルジャクソンも、Coldplayも、人が人であることを大事にするために、歌を歌っている。


ナチスドイツの総統であるヒトラーは、もともと絵描きだった。
美術大学に落第した彼は、のちにある絵を「非ドイツ的、非スイス的、理解不能」として弾圧していた。
彼が物事を計る物差しとして使ったのは「ドイツ文化」だった。そしてひとつの物差しで測った文化は、結果として「退廃」した絵を定義し、それを消し去ることを狙おうとした。

もしも、競争のロジックだけで語るならば、資本主義の原理に基づき
絵は生成AIに食われてしまうのではないか、と感じている。
絵を描くことは資料集めに観察、何時間も机の前に張り付く耐久戦のように人によっては見える。

でも人は競争だけに活きるわけじゃない。人が絵を描く過程には、いくらそれが間違っていてもへたくそでも、その人が洞察をしてきた跡が残っている。もしも2010年以降、急激に拡大したイラストに対して、人はそれをどう大事にすることができるだろうか。
これが私が(まだ答えを持ってないが)大事な問題になる。



イラストレーションに対しての個人的に考えた課題点

①絵をどう扱ったらいいかがわからない


以前、プロのアニメーターの方のライブドローイングに参加したときに、「私たちはアニメーターの作品をどう扱えばいいですか?」と聞いていたことがある。その時の5~6人のアニメーターの方の答えは①好きでい続けるだけでいい②もっとストレートな感想が欲しいの二つだった。

ただ、この①好きでい続けることは、Vtuberやアイドル、ゲームを夢中でやったことがある人ならお分かりいただけるように実は無茶苦茶難しいことである。なぜなら人は「飽きる」からだ。
ゆえに、毎日絵に接するとき、その絵から新しい楽しみを見つける習慣を何等か作ってあげる必要がある。(Twitterはそのひとつかもしれない)

「イラストレーション」というジャンルは、用語が非常にあいまいでジャンルの違う用途の絵を一つの言葉にまとめるために使われてきた。一種一番なじみ深い「絵」を表す単語でありながら、その言葉が流行になったのは、やはりpixivが発足したここ十数年のことのように思える。
すると、イラストを描く・生産する方法は存在していても、美術とはまた少し違うポップアートをどのように展示するか・どのように長く楽しむかについての考察や論考は多くない。
(ただし、エンタメに近いジャンルであるので、例えばコスプレのようにコミケの周りでは、そうした楽しみ方を開発している人もいるだろう。)

ここについて、現在アイデアを深く探している。


ひとつの解決策は、絵描きの方がやっている作業過程(資料探し、ペン探し、観察、ものを置いてミニチュアをつくる)をゲーム化して体験させることである。ゲームは一種の疑似体験であり、これが役に立つ場面は多い。
ファッションの着せ替えゲームは、特に色の組み合わせを考えるときに、
得るところが多そうだ。


②うまい/下手以外の価値観と共通用語を作る ーー絵を見る人が常にうまへたを考える必要はない


ポケモンカードのイラストで有名なさいとうなおき先生は、イラストレーションを描くことを始めた人にとって最初に見ることになるだろう有名なYouTuberである。彼の動画は、確かに非常に切れ味するどく、

うまい下手/スキキライという言葉は、必ず比較級を生む。
そして、特に型稽古の段階では、個性を考えるのではなくひたすらにその型を習得するため、どうしても「うまい/下手」の判断が入ってくることはある。
しかし、特に現代のイラストレーションに感じている難点がある。それはイラストという用語があまりに異種混合であるがゆえに、「型」がうまく成立していないのではないかということである。

陸上選手の為末大選手は、熟達の糧となる型の中で悪い型の例を次の3つと上げた。

①シンプルではない
②検証がタブー視されている
③効果を期待されすぎている。

為末大『熟達論』新潮社

例えば英語の文構造の基本の方は5つしかないように、あるいはオペラの歌い方の練習法(ベルカント唱法)も基本の練習が5つくらいしかないように、歴史が作ってきた「型」は存在している。
その型は、歴史を経て何度も検証がされている。

しかし、絵の場合、特に型に近いであろう「デッサン」という言葉が人によってあまりに定義がされておらず、歴史的な検証がどのように行われてきたのか、文献を探ってもうまく固めることができなかった。あまりに人によって言うことが違いすぎるのだ。本当に良い文献をお持ちの方助けてください。

古くは手塚治虫のマンガ、近年ではアニメーター検定のように、集団作業が行われる周辺ジャンルでは繰り返しこうした議論が続いてきた。
しかし、「イラスト」という言葉は範囲が広すぎであり、正直そこまでいくと一度「人間にとって絵とは何か」を考えるところまで立ち返ってよいし、あるいはそういう絵描きのプロの学会があるべきですらないかと感じる。



音楽と言う分野で考えてみよう。
例えば、Adoさんの「うっせぇわ」を、眠い時に聞いたらどうなるだろうか。あれだけの怒鳴り声がいくらかっこよかろうと、寝る前にはさすがに不向きである。
逆に、運動会でノリノリになりたいとき、血気盛んになりたいときにうっせぇわを聞くと、アドレナリンが出て奮起できるかもしれない。

本当は絵もそうした目線で語っていいはずである。
絵の中にしかない不思議な世界に救いを求めて絵を見る人
e-sportsで、勇ましい絵を背中に戦う人
人に言えない憎しみを絵に代弁してもらう人

絵描きではなくても、うまく言葉にできなくてもそこでは絵を大切に扱っている人がいる。そうした人に話を聞くことを(SNSよりも生で)始めてよいのではないかと感じる。
私が10人ほど絵を描かないが絵を集めている人と話をした限り、絵の取り扱いで困っている人は予想より多い。


関ジャムは、実際に音楽家を読んできて歌の楽しみ方をいくつかの方向から語りつくす番組である。さらにおげんさんのサブスク堂は「好きなものを好きなままに語る」ことをモットーに、星野源が非常にディープな音楽ネタを楽しそうに語る番組である。星野源は、歌やラジオから一貫して「好きなものを好きに語る場所」を作ることを大事に育ててきた。

実は、こうした場所やコンテンツをいまだにポップアートの世界では見つけ切っていない。山田五郎さんのYouTubeが近い例かもしれないがこれは美術界のお話。


③絵を「言葉」以外で見る ーー絵描きさんの目線を知る


絵描きさんの目線で考えると言葉で絵が語りつくされるのは苦痛であるという目線もある。例えば抽象絵画のポロックのように、どんな言葉に規定されない絵を描くことを大事にする方も多い。さらにアニメーションにおけるエフェクトは、

日本には、マンガやアニメという「物語」を伝えることに特化したコンテンツがある。その一方で映画やイラストの世界では、時に「物語」を口で語るだけ作品がよくないと考えられることもある。
アニメーターの平松禎史さんは、Xにてある映画の一シーンを見た時に
そのシーンが「女性の配置」「服の色」「動き方」という言葉以外の要素だけで、その二人の関係性を読み解くことができるという。


このように、絵を描く方はわかりやすい言葉で語る物語のほかに、ペン先や物の配置、構図だけで物語を絵で表すことができる。
こうした視点は、特に映画や写真などの解説書で詳しく見ることができる。


④何を作っても行ってもいい場所と仲間を確保する


絵を作る過程では、どうしても「こっちの方がよい」「こっちの方が悪い」という意識が働く。そして、そのこだわりは、やはり表でいうと非常に角が立つものになることも多い。
後々に、自分が嫌いだった絵を好きになることも多いが、少なくとも最初に絵の感想を考えていくときは自分の身の回りで、どんなことを話しても気にならない、仲間内から始めた方がいい。
Xは確かに絵師さんを探すのにはよいのだが、そこに書かれている言葉があまりにも強く、絵を見る目線に影響するため見続けるのを私はお勧めしない。


⑤まずは、みんなが共通して「よい」と言っている資料を基礎文献として固める


(ベルカント唱法は、現代でも使える歌を歌うための歌い方)

前述のように、私が困っている点として、絵は音楽以上に統一の見解として有効とされている考えが少ないことになる。私のようにあるジャンルを触るときに、みんながある程度「これが正しい」と考えている考えを参照するようにしている。
が、美術に比べても圧倒的に現代のイラストに関してはこれが確立していない印象がある。故に、この1年ほどは特に歌に本気で入れ込む横で少しずつ、どの講座や本ががっちり基礎をつかんでいるかを考えていた。
以下は、そうした基礎文献の一部である。


最初の一歩 ――絵が生まれる過程を見てみる

 絵を描く過程を見ることができる中で、海外ではBob Ross、日本では柴崎先生が、YouTubeでためになる動画を上げている。特に柴崎先生は、クレヨンや鉛筆などさまざまな画材による絵の質感の変化を試しており、上級者の方でも学ぶところが多いように感じる。
ただまず、単純な絵筆の線だったものが、どんどん山や海の形になっていくのを見るのはワクワクする。


画材(現在非常に難航中)

「画材」は、特に人により使うものが変わり、また高価な場合もあって私がまだ調べ切れていないジャンルである。

美術史


イラストレーション史


イラストレーションの歴史も、非常に集めるのが難しい。
厳密にいえば「ライトノベル」「ゲーム」の歴史の本を買って、
そこに使われてきたイラストやデザインの歴史を自分なりに作っておいておくことが望ましい(そしてそうした本の書籍化を望む)


美術解剖学


頭の体操 ーー絵は言葉ではすべて語れないことを確認する事

繰り返しになるが、熟達論を読んでも絵の本を読んでも、そのほとんどは言語で語ることの限界を解いている。あまりに頭でっかちになった時は、このnoteを閉じたり、上記にあるように「体感」で絵を感じるだけでよいことを時に思い出すのがよいだろう。


写真と映画技術 ーーイラストレーションの親友

写真と映画は、イラストレーションの技法に直接影響を与える分野である。特に近年ではアニメの撮影にVFXが大きな影響を与えた。
この2つのジャンルに対しては、アニメの歴史を考えても特別な思い入れを入れてよいだろう。

技法書(ここからかなり人によって必要な本が細分化する)


絵画が歌よりも教えるのが難しいのは、その真ん中にあるスキルが
「観察」だからにある。デジタル技術の登場で画材を個々人がどこまでもカスタムできるようになり、さらに観察して導き出すモチーフも人によって違う。






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