顔の発見

ZOOM打ち合わせをしていると、相手の顔ではなく自分の顔ばかり見てしまう。

そして思う。ZOOMの小窓の向こうにいる人もこうなんだろうか。

私はテレビに出ることもなければyoutubeに動画を投稿することもない人間だからして、しゃべっている自分の顔をまじまじと見る機会(見られる環境)がこれまでなかった。

鏡に映る顔を見て、不出来だな、とか、鼻があと3センチ高ければ、とか思うことはあっても、また鏡に映る顔に話しかける(飲みすぎて死にたいときなどに「バカなの?」と自問自答する)ことはあっても、他人が見ているそのままの顔が動いているところは新鮮だ。

それが面白いのかというと、結構面白いと思う。お前そんなかよ。そんなふうに動くのかよ。人はこれを見ているのかよ。40年以上つきあっている顔なのに、発見が多い。

他人を前にしているからか、鏡のなかで動いている自分よりずっと「よそ行き」で、照れくさいような、誇らしいような「昼間のパパ」(忌野清志郎!)の感じがある。社会的な「あるべき姿」にチューニングされていて、意外なほど安定している。

不出来なりに頑張ってるな。そう言って労ってやりたくなる。

一方では、懐かしさもある。苦味まじりの懐かしさだ。

左右の口角が嫌みったらしく歪むんだなとか、笑うと顔が赤くなるのは酒焼けなんだろうかとか、自分の顔ばかり見ていることは相手に気づかれているのかなとか、話しながら「自分的ベストの角度」を探してしまっているなとか、いま口角の歪みを矯正しようとしてぎこちなくなってるなとか、やましいことがあるとおおげさに表情をつくって誤魔化そうとするのがキモいとか、これ全部バレてんのかなとか、

そういう、自意識の堂々巡りみたいものを、久しぶりに味わっている。

かつて公立中学校の教室で同じことを私はしていた。ZOOMの助けも借りずに私は私の全てをモニタリングできている気がしていた。全てをモニタリングしている私のことをモニタリングしている教室の誰かのこともモニタリングできている気がしていた。かすかす、隣の席の女の子の頭脳からも同じ堂々巡りの音が聞こえるようだった。かすかす。

ある取材で、そういう面倒くさい自意識を満足させてくれるリアルタイムの動画修正技術だったり、アバターだったりの話を聞いた。

政治家やタレントではなく、一般人の話だ。例えば「怒っていないのに怒って見える顔で悩んでいる人」がそのフィルターを使うと一律で笑顔になり、ウェブ会議が円滑に運ぶほか業務上のメリットがいくつもあるらしい。

「これを職場に導入していいものか議論があるんです」とその人は言った。この人は本当に笑っているのか?と相手が疑心暗鬼にかられるから、だそうだ。「でも化粧が許されるんだし、相手に笑顔を見せたいという気持ち自体は、責められるものではないと思います」

この人は本当に笑っているのか? 笑って見せたい気持ちはどのぐらい善なのか? 今笑っている私の顔はどのぐらい「本当」か? 私は私の表情をコントロールしきれているか? 知られたら社会的な信用を全て失うような何かが漏れ出ていないか?変態性癖とか。

ズームの小窓のむこう、皆の頭のなかでそういう自意識の堂々巡りが展開されているんだろうか。していてほしいよ。この教室に1人は寂しいから。


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