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「Fukushima50」とNHK「最悪のシナリオ」

10年前の3月11日、私は民間任用(2年満期)の内閣審議官として、メディアが立ち入れぬ首相官邸の最奥部で、事態の渦中に居合わせていた。
そんな人間の1人として、テレビ各局の「3・11」10年関連特番を見ていて、特に心揺さぶられた番組が2つあった。

1つは、日テレの金曜ロードSHOW!「Fukushima50」(去年の劇場公開とは違った意味で)  。 もう1つが、NHKのETV特集「原発事故 ”最悪のシナリオ”/その時誰が命をかけるのか」。
ーーーそれらについてちょっと書こうかな、と思っていたら、奇しくも同じ2番組を挙げて先にコメントしている人が、意外な所にいた。

フランス「リスク・危機研」研究員の賞賛と憤慨

フランスの「リスク・危機研究センター」(Centre de recherche sur les Risques et les Crises)の一員として、3・11以降たびたび来日し、福島原発事故関係のキーパーソン(東電も関係官庁も首相官邸も)多数に会って情報収集を重ねた、日本人のY研究員。
既に任期を終え日本に帰国している同氏は、あるクローズドなSNSグループに今回こう書いている。(ご本人の承諾を得て一部抜粋)

3月11日に至るまでの新聞、テレビの特集がほとんど出そろいました。大半をカバーした私の勝手な判断で、一番優秀だったと思われるのが、NHKの「原発事故 ”最悪のシナリオ”」です。

総理大臣が東電に「命を懸けてでもやれ」と言ったことが、戦時体制でない中で、どれほど覚悟がいることだったか、自衛隊と米軍に処理を任せて逃げ出そうとした東京電力の幹部たちがどれほどいい加減な体質かがよく理解できる取材だったと思います。

NHKは最近よく叩かれますが、このような優秀なドキュメンタリーをNHK総合でやらずに、Eテレで、目立たないようにやるのも一因だと思います。

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こういう良いドキュメンタリーに触れると、取材不足の他のいい加減なドキュメンタリーやFukushima50みたいな映画を見て、腹立たしくなりました。

福島第一原発に最後まで残ったFukushima50の心意気にいささかも異議を唱えませんが、科学・技術の視点から言えば、東日本壊滅に至らなかったのは、運に恵まれただけなのも厳然たる事実です。

Fukushima50に象徴される「福島第一原発の吉田所長以下の人間は英雄、当時の官邸の危機管理は最悪」という単純化されたストーリーの下、日本の危機管理構築が震災から10年以上経っても進まないことの責任は大きいと思います。
                      【抜粋引用ここまで】

「事実に基づく物語」とは、「事実」+「物語」ということ

Y研究員は、閉じたグループ内での発言ゆえに、「Fukushima50」に対する違和感をかなりストレートに吐露している。私も、「ヒーローと悪役をくっきり分けることがエンターテインメント作品の秘訣である」という事情は理解しつつも、この映画がエンタメではなく“史実の記録映画”と多くの人に誤解されていることーーーそしてその誤解が、映画館という閉じた空間を飛び出して今回テレビ放映という形で一気に社会に拡散してしまったことには、Y氏同様にヤバさを感じる。それは、《作品》として加工されたストーリーが、《時代の記憶》として固定されてゆく危機感だ。

素直な個人的感想としては、Fukushima50と呼ばれる現場の人々の描写には、本当に感動した。ここまで丹念に取材して記録に留めてくれた原作者の門田隆将氏にも、それを壮大な労力をかけて(無論 脚色はあるにせよ)視覚化してくれた映画チームにも、その点は深く感謝したい。
そして、渡辺謙演ずる主人公(福島第一原発の吉田所長)が東電本社幹部たちのグダグダぶりに何度も怒りを爆発させるシーンにも、首相官邸で全く同じ憤りを抱いていた者の1人として私は「この描写、正確!」と激しく共感した。(下村著・朝日新書 Kindle版「首相官邸で働いて初めてわかったこと」P.145〜152参照)

表紙写真(斜めアングル)

これらは、映画冒頭で宣言している「事実に基づく 物語」という言葉の中の、「事実に基づく」という部分だろう。これに対して、「物語」(=創作)として扱われていたのが、政府の人間たちだ。

そのように描き分けていますよ、という方針を、制作陣はきちんと観客に示している。よく指摘されている通り、事故現場で奮闘する吉田所長は実名だが、官邸の登場人物は「総理大臣」とか「官房長官」など、固有名詞なしのいわば架空の設定になっているのだ。だから佐野史郎は、実在の菅直人があの時どんな喋り方をしていたかなど忠実に再現する必要もなく、自由に戯画化して物語として誇張することができる。それは、実在のFukushima50の内のお一人が冒頭のY氏に「総理の姿を茶化しているように見えて、笑ってしまった」と打ち明けるほどに怪演として成功していた。

[1人]に視線を集中させると、[全体]が見えなくなる

実際は、どうだったのか。確かにあの時の総理大臣は「イラ菅」と言う異名を持つほど、日頃から苛立つと語気が強くなる人ではあった。当時私が常に持ち歩いてリアルタイムで書き留めていた個人的ノートの、震災発生当日のページにも、こんな走り書きがある。

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右下のアンダーライン部分、◯で囲んだKは“菅直人”の略号。つまりこれは「菅に冷却水が必要」と読む。福島第一原発の全電源喪失という信じがたい第1報が総理執務室に届いた時、菅氏は「なんで非常用ディーゼルエンジンまで止まるんだ!」と怒鳴った。確かに怒鳴るに値する重大情報ではあったのだが、私は目の前でそのテンションを見て、原子炉の燃料棒だけでなく「まず首相の加熱を冷まさないとヤバい」という思いでこの一言を書きなぐった。

その後も、菅氏が(頭の中は冷静でも)語気を荒らげてしまう場面は何回もあった。それについて菅氏自身は、のちに「火事場では(誰だって)怒鳴るでしょう」と述懐しているが、普通のオッさんならその通り。しかし《内閣総理大臣》という地位とその怒鳴り声が合わさると、特に面識の無い人などは相当ビビるのだ。
その結果、様々な新提案(例えば冷却用の海水注入)に対し「大丈夫なんですね?」とただ《確認の質問をしている》つもりが、「大丈夫なのか!?」と《ブレーキをかけている》ように受け取られ、頼んでもいない「官邸の意向で一旦待て」という過剰な忖度を招いたり…といった不幸なコミュニケーション不全が、大小何度も起きてしまった。

だから、《リーダーの物腰》が、あの原発事故を巡る無数の混乱要因の内の1つであったことは、間違いない。しかし、そういう緊迫場面をこの日から何度も至近距離で目撃していた私から見ても、この映画の中のイカれた総理大臣は「誰?」という極端キャラだった。

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菅氏ご当人は近著「原発事故10年目の真実」(幻冬舎)に再掲されている『論座』インタビューの中で、この描かれ方について「そんなにひどいとは感じていません。劇映画ですしね」(P.197) と鈍感力を発揮しているのでまぁ良しとして、問題なのは、今回あらためてテレビでこの映画を見て、その極端な表現を真に受けてしまった人たちの《これから》だ。

つまり、「混乱の元凶は菅直人だ」→「この首相さえ取り除けば大丈夫、もうあそこまでこじれたトラブルには至らないんだ」と思い込み、再発防止の為の真剣な危機管理体制構築に取り組む社会の機運が、低下してしまいはせぬか。それは喩えて言うならば、「コロナの感染防止にはマスクさえしていればいいんだ」と信じ込み、「他の防止行動(外出の自制、ワクチン注射、手洗い、うがい等)は要らないんだ」と軽んじてしまう愚かさに等しい。

悲劇の理由を単純化してしまうと、次の悲劇を防げない。原発大国フランスで危機管理の研究をしていたY氏が、沢山の当事者インタビューを踏まえて冒頭の引用文の最終段落で指摘しているのは、そういう事だと思う。

鮮烈に明るいスポットライトの、中と外

初めの方でも少し書いたが、「Fukushima50」はドキュメンタリー映画では無いから、事故現場のヒーロー物語という形にストーリーを単純化した[制作者側]は、責めるべきではない。もちろん、「こんな副作用のデカい単純化は、いくら作品のためとは言えオレだったら引き受けないな」とは正直思うけれど、でも責めはしない。ましてやこの作品を、「当時政権についていた民主党勢力にダメージを与えることを狙ったプロパガンダ」と勘ぐる事は、失礼だ。もちろん、結果的に「お、これは政治的に利用価値があるな」と腹の中で勝手に計算した人々は存在するだろうが、それを、この作品完成に心血を注いだ制作チームの思いと一緒くたにしてはいけない。

それよりも肝心なのは、この作品が敢えて選択しなかった《スポットライトの外側》の存在を、[視聴者側]意識から飛ばさないことだ。この映画に限らずどんな情報であろうと、「スポットライトの中に見えているものが全てだ」と思い込んだら、全体像を見誤る。私がいつもメディアリテラシーの授業で使っている図式に当てはめるなら、↓こういう事だ。

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とは言え、ここまで情報発信に資金や手間ひまがかかっていると、スポットライトの中がまばゆ過ぎて相対的に周囲の暗がりが全く見えなくなってしまうのも無理はない。ここで幾つかだけ映画の印象的シーンをピックアップして、《選ばれていない視点》を例示しておこう。

【まだベントもできず本体爆発の危機的段階にあった第一原発に、首相がヘリで乗り込むシーン】
スポットライトの中………陣頭指揮の真っ只中の吉田所長に首相が直接説明を求めることで、貴重な時間を奪う邪魔者に。→(これは事実)
スポットライトの外………①ヘリ訪問という異常な決断をするまでの官邸での出来事 →(東電本社幹部に何を質問しても「わかりません」としか答えられず、何の情報も得られない絶望的状態。私も直接立ち会っていて、本当に唖然とするばかりの酷さだった。)
②吉田所長との対面を終え、原発を離陸するシーンの“後” →(官邸に帰ったと殆どの人に思われているが、実はそこから宮城方面の津波被害視察に行った成果が、後述の通り極めて大きかった。原発は、その行きがけに立ち寄ったもの。)

【東電幹部が吉田所長に、海水注入を待つよう指示するシーン】
スポットライトの中………「官邸がグチャグチャ言ってるから注入は待て」と電話で話す幹部
スポットライトの外………「グチャグチャ言ってる」の中身 →(前述の、総理の強い語気の質問を東電が過剰忖度したスレ違い)

【その後の状況悪化で、事故現場からの撤退を促された自衛隊員たちが、居残ることを表明するシーン】
スポットライトの中………エキセントリックな総理のシーンとは対照的な、「国民の皆さんを守るのが私たちの務め」という崇高な発言
スポットライトの外………その自衛隊の災害派遣出動を命令したのが、あの総理だという当然の事実 →(あのヘリ視察で実感した被害の甚大さから、当初の2万人派遣を国防上スレスレの10万人まで空前の増員命令。官邸内の危機管理センター壁面の巨大画面でも認識しきれない被害スケールで、災害現場の上空取材に慣れている私でも同乗して「自分は何もわかっていなかった」と思い知らされるほど、このヘリ視察は貴重だった。)

110312/原発視察に使用したスーパーピューマ写真(陸自調査団サイトのフリー素材)

[当日使用された「スーパーピューマ」同型機/陸自調査団サイトより]

セリフなき背後の役者達による、残念な印象誘導

このように《官邸側から見えていた事》を重ね合わせることで、あの時起きていた事の全体像の理解は、より深まる。映画にここまで盛り込んでいたら時間がいくらあっても足りないからカットするのも仕方ないが、情報を受け取る側はこうして欠落部分を自分で足し算していこう。それは決して「じゃぁ仕方ないな、許してやろう」と思うためではなく、より正確な再発防止策を考えるために必要なことだから。

ーーー以上、映画「Fukushima50」に関する
《Yes,And》(=肯定した上での追加情報) を書いてきたが、ここで1点だけ《No,But》(=否定した上での修正情報) を不本意ながら付記しておきたい。

無論、細かいNOをあげ出したらキリがないのだが、ここだけはかなり重大なミスリードなので、指摘しておく。総理が第一原発に到着して、吉田所長と向き合って話をするシーンだ。私はその場にいたから断言するが、そこはかなり小さな会議室で、立ち会っていた人数は官邸からの同行者と東電側合わせて10人そこそこだった。
ところが映画ではこの場面は、吉田所長の背後に数十人(!)の原発側スタッフが直立不動でズラリと居並ぶ演出になっており、あたかも「総理の訪問で現場全員が機能停止を余儀なくされた」ような描き方がされている。なぜこんな風にしたのかわからないが、これは誇張の域を超えた作り話だ。もちろんエンタメ映画だからそれもOKではあるが、あれだけ細部の再現にまでこだわっていただけに、この綻びは惜しい。ちゃんとスポットライトの副作用に注意しながら見ている視聴者でもこの印象誘導には騙されざるを得ず、残念だった。

「その時 誰が命をかけるのか」を、その時 誰が決めるのか

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もう1本、震災10年特番の中で私が揺さぶられた「原発事故 “最悪のシナリオ”」は、NHKがETV特集を90分に拡大して打って出た渾身のドキュメンタリーだった。その評価は冒頭に引用したフランスのY研究員と完全に一致しているので繰り返さないが、少しだけ付言する。

総理大臣が民間人(東電)に「撤退は認めない」と言い放ったことの超法規性については番組が問題提起している通りで、これは「すばらしい覚悟だった」などと感心している話ではない。10年前、その発言の数日後に菅氏が私に「総理が国民に『国のために命をかけろ』なんて言ったのは、神風特攻隊以来だろうな…」とボソッとつぶやいたときの苦悩に満ちた表情は、まぶたに焼き付いて離れない。
現実に、まさに神風が吹いたような奇跡に救われてあの原発事故は東日本壊滅の破局を免れたわけだが、それで結果オーライとしてはならない。再びこの番組の副題通り《そのとき誰が命をかけるのか》というレベルの国家的危機に直面したら、今度はどうやってリーダーは指示を発したら良いのか、そのルールの枠組は本当に今のうちに確立しておかなければならない。

そして、内容の話からは離れるが、この番組について私が感銘を受けたのは、その取材姿勢の真摯さだった。こういう観点から原発事故を見直したいので協力してほしい、と担当の1人 Aディレクターから初めて連絡をもらったのは、去年の夏のこと。以来何度もA氏は質問を携えて私の所にやってきた。その質問内容は極めて具体的で、しかも他の取材の蓄積を反映して着々と深度を増して行き、そのレベルを満たすだけの十分な回答をこちらが持ち合わせていないことが、申し訳なくなるほどだった。

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私のノートの接写は↑この写真の赤枠部分「9:55 第1原発-4号炉  火災は手に負えない状態」が画面にピンスポットで浮かび上がる形で紹介されたが、そのシーンもセンセーショナリズムで煽らず、淡々と抑制が効いていた。字幕表現の調整確認メールは放送前夜にまで及び、最後の最後まで磨きをかけ続けていた。こうした努力をおそらく何十人もの情報源と重ねて、あの番組は出来上がったのだ。拍手。

東電と私たちが、これからすべき事

「Fukushima50」が描き出した、事故現場の苦悩。「最悪のシナリオ」が描き出した、政府や自衛隊や米軍の苦悩。こうして10年経った今でも、新たに見えてくることがある。しかし、そんな両作品でも描くことができずに、いまだにスポットライトの周囲の暗がりに隠れたままの部分もある。それは、東電本社の当時の詳細だ。
この情報の空白を、映画は、幹部の言動を深く描き込まないことで処理し、NHKは「取材を断られた」と番組内で明示した。

例えば3月15日朝、総理が東電本社に乗り込んで「撤退はありえない」と演説したあの最も重要な社内録画すら、東電は音声が残っていないと言う。それが本当ならあまりに残念な偶然だし、誰か官邸サイドの事なかれ主義者から「消した方が」と示唆されたのならもうそんな気遣いは“時効”だと蹴飛ばしていいし、ただ単に「総理演説と一緒に録音されてしまっている社員の総理批判のつぶやきがヤバい」といった事情で表に出せないだけなのなら、《東電側にとってそのようにしか受け止められない総理演説だった》という事実もまた重要な歴史の記録だから、もうあれこれ過剰に蓋をしないで社会に共有してほしいと切に思う。このピースが欠けたままでは、再発防止のジグソーパズルは完成しないのだから。

ーーー今日は3月18日。あの大震災から、10年と1週間。“節目”を過ぎたと言うけれど、先週の3.11と今日の違いは、震災から3653日目か3660日目かというだけのことだ。これからも何も変えることなく、それぞれのやり方で震災と向き合い続けていこう。
私も、つかの間の内閣広報担当者としてあの日々の中で痛いほど思い知らされた情報キャッチボールの難しさを、次世代に何の進歩もなく再び味わわせないために、メディアリテラシー教育の普及に引き続き打ち込んでいきたい。贖罪やらリベンジやら世代責任やら、いろいろな思いを込めて。









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