「余白」がある、ということ
休日にランチに出かけ、そのままブラブラと歩いて、見晴らしの良い場所にたどり着く。
広く抜けるような視界を、少しずつ傾き始める陽射しを、やさしく吹く風を感じながら、時間を気にすることもなく、時々思い出したように話をしたり、また静かにその場に佇んでいたり。
五感が自然にひらかれていく感覚を味わいながら、一期一会の瞬間を生きているんだなあ、という想いで、ただそこに「居る」ということ。その居心地を確かめるようにして。
よく「日常」に対比するようにして「非日常」のそんな時間も大切だよね、という話はあるけれど、若い頃から何となく違和感をおぼえていた。
なぜ、仕事では気持ちを張り詰めて、休みの日に疲れを癒し、ストレスを発散するようなことが必要なんだろう?
働く時間とは、愉しく生きるプロセスのひとつであるはずではないのだろうか。
だとしたら、仕事自体に、心を開放して、その瞬間の空気に心地よく身を委ねられるような側面があってはいけないのだろうか?
ひとつの活動だけでは出会えない相手、関われない環境というものがあるのは分かる。
だから、仕事では行かないような場所で、仕事だとご一緒しない人と、いつもとは違う景色を眺め、いつもとは違うプロトコルで交流する時間を意識的に持つことは、とても大切で。
でもそれは、決して「しんどい日常のデトックスとしての非日常」みたいなものではなく、それぞれに異なる体験を愉しむために複数のチャネルを通して社会と接点を持つ、そんな位置づけなのだと。
そう思えるように、働く時間のなかにも「豊かな余白」を持ち、その時間の質を高めていくことに本気で向き合う必要があるんじゃないかと考えています。
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