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民主主義はめんどくさい(まちの不思議 おもしろ探究日記 #7)

(本記事は雑誌『社会教育』に掲載された記事を転載しています。)

ここ数年、私の夫は三国志のソーシャルゲームで「帝」をやっている。
ソーシャルゲームとは、オンラインで他のユーザーとコミュニケーションをとりながら進めていくゲームであり、「帝」は、数百人いる同じグループのユーザーをまとめるリーダー的役割である。

他のグループとの戦いに備えて、どのようにグループ全体を強くしていくのか、どんな戦略でいくのか、他にも細かいルールを決めるために、グループ内の各チームから代表が集まり、定期的に会議が行われている。
会議は、最初は不定期だったが、定期的に開催することになり、会議の前には議題を挙げておくというルールも存在する。

さらには、特定の人たちに力が集まりすぎないよう、定期的に「帝」を決める「選挙」が行われることにもなっている。
その選挙の方法も会議の中で決められ、厳粛に執り行われた結果、夫は帝に返り咲いた。
夫が帝をやっていると内乱も少なく、グループとしての戦力がどんどん上がっていくということらしい。

趣味でやっているゲームの中で、あまりにシステム化された会議体が出来上がっているという状況に、つい「PTAみたいだね」と言ってしまった。
それを聞いて夫は、「なんていうの、こういうの。民主主義?本当にめんどくさいよね。」と言いながら笑った。

ゲームの内容ももちろん楽しんではいるが、どうやら自分たちで話し合ってルールを決めていくという、その事自体も楽しんでやっているようである。

これまで私は、幼稚園や小学校のPTAの役員を様々な形で引き受けてきたが、どのPTAでもとにかく「まずは規約」と言われた。
PTAには、話し合いと決め方のルールがあり、そのルールが書かれているのが規約である。

全会員が参加できる「総会」に一番の力があり、通常年に一~二回開かれる。
総会では、予算決算の承認と一年の活動報告、そして規約の改定と翌年度の人事の決定が主な議題であり、参加者の多数決によって決められる。
この総会に持ち込む議案や日々の細かい活動内容を決定するのが「運営委員会」であり、運営委員会には活動を実際に行うクラス委員や専門委員の方々が会員を代表して参加する。
そして、この仕組み全体をまわす役割を担っているのが本部役員であり、この仕組みが明文化されているのが規約であり、規約だけではわからない細かい部分を解説した活動の手引書等がある。

委員選出の方法などに多少の違いはあるにせよ、この話し合いと決め方については、どこのPTAも大体同じような仕組みで回っている。

この規約や手引書は、そのPTAの長い歴史の中で、問題や揉め事が起こらないよう、経験を積み重ねてつくられてきた記録であり、基本的に「守ったほうが概ねうまくいく」というものとして存在する。
そして、その背景には、特定の誰かの意思によって、団体の意思決定がされてしまうことがないように、どこかの政党や企業の利益となる活動にならないようにといった意図があり、とにかく「みんなで決めた、みんなの意思決定」を重視する考えがある。
つまり、この面倒な意思決定の仕組みにこそ、PTAの「民主主義」があるのである。

何か集まって民主的に物事を進めていこうとすると、私たちはどうしても似たような仕組みをつくってしまう。
みんなの代表を決め、話し合いが行われ、多数決での採決が行われる。そして、そのためのルールが決まり、そのルールをみんなが守ることを求められる。

それは、PTAに限らず、会社でも趣味の集まりでも同じことで、教室でも、家庭内でも、そして国会でも、国連でも、同じような仕組みで動いている。
おそらくそれが、歴史の積み重ねの中で今たどり着いている、一番民主的だと思われているやり方だからだろう。

ただ本来的には、この代表制の仕組みの前に後ろに対話があり、仕組みを補完して成り立つものであるように思う。しかし、対話はめんどくさく、やりたくないという人も多い。
さらに、仕組みが先に立ってしまうことで、「ルールの番人」みたいな人も現れてくる。
そして、それぞれが良かれと思ってとった「ルールを逸脱した行為」は厳しく咎められる。

なぜか。
それが「民主主義に反するから」である。

現在のPTAにおいて、一子一役やくじ引きといった、慣例としてのルールで「やらされている」人にとって、自ら主体的に動いた結果咎められる、という事はさらにやる気を失わせることである。
しかし、それが多くのPTAで起こっていて、そして、多くの保護者の心はPTAから離れている。それがPTAの実情だ。

その結果、活動はどんどん衰退し、改革という名の活動停止が起きたり、一部の「ルールをよくわかった人」による独裁状態みたいなことも起こりやすくなっている。
「民主主義」のための仕組みが、むしろ真逆の結果を生んでしまっているのである。

本来、自分たちのルールは自分たちでつくっていけるものである。なので、ルールが活動に合わない場合は、どんどん変えていけばいい。
ただ、そのつくり方や変え方にもルールがある。PTAの場合、それがわかる頃には任期が終わってしまうということも多い。
やり方さえ分かってしまえば、その中でやりたいことを自由にやれるというおもしろさもあるが、なかなかそこまでたどり着く人は多くない。

冒頭の話にもあるように、自分たちで自分たちのルールをつくっていく、というおもしろさは、民主主義のとても大事な要素である。
一方で、この民主主義のおもしろさには、仕組みをちゃんとまわして、しっかりと話し合うというめんどくささも常に伴う。
めんどくささとおもしろさの狭間で、民主主義は常に揺れ動いている。

さて、このめんどくささにあふれる仕組みの中、いったいどこまで「おもしろい」という感覚は広げていけるのだろうか。
十二月に、私の団体で「PTAはどこまでおもしろがれるのか?!」をテーマに対話の場を開く予定である。
次回は、その様子と共に、このめんどくささについて、さらに深めていけたらと思っている。


▼ 雑誌『社会教育』


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