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酔っぱらって、こけちゃった人

気温がぐんと下がり、マスクから出ている頬に冷気が刺さった。時刻は22時近く、大通りから一本入った道は、私以外、誰も歩いていない。
静まり返った夜道。仕事を終えて自宅へ向かう帰路で、空っぽの頭に、自分の足音だけがコツ、コツ、コツと響いた。最寄駅から自宅まで歩いて15分程度だが、その間に体の芯まで冷え切ってしまいそうだ。

ガッシャー―ン。

道の先のほうで、物音がした。ゆっくりと、重く、鈍い金属音。すぐ先の十字路、左手側だ。おそらく、自転車だろう。

曲がり角まで足を速め、左手を覗いた。
横倒しになった自転車から、一人の男性が這い出している。赤茶色のダウンジャケットに、デニム風のズボン。毛糸の帽子を被っている。男性は膝に手をついて、ゆっくり腰を伸ばした。こちらに背を向けているため顔は見えないが、60代か70代前半くらいだろうか。
転がっている自転車の付近に、マンホールの蓋が見える。蓋の上にタイヤが載って、滑ったのかもしれない。

周囲で彼の様子を見ているのは、私だけだ。怪我で動けなくなっているわけではないが、見て見ぬふりして行くのも気が引けた。
「大丈夫ですか?」
男性の背中に、私の声が届いた。
「あぁー・・・」
男性は、自分の様子を見ている人がいることに、ようやく気が付いたようだ。
「だいじょうぶぅですっ」
その返答で、彼が自転車で転んだ原因が、おおよそ判明した。
マンホールの蓋ではなく、お酒だ。
飲んで自転車に乗り、よろよろして、こけちゃったのだ。
私は、家路へ向かう道に歩を進めた。

付き当たりの大通りへ出ると、車道の信号が青になった。横断歩道の前に立ち、自動車が通り過ぎていくのを見送る。
「たいした怪我がなくて良かった」
こけちゃった人について、そう思いかけた時、私の脳内で「待て」が掛かった。

自動車の飲酒運転は罰則が厳しく、運転免許が停止になる場合もある。飲食店が車を運転することが分かっているお客さんにお酒を提供したり、勧めたりするのも禁止されていたはずだ。

「乗るなら、飲むな。飲んだら、乗るな」

飲酒運転防止のポスターで覚えたキャッチフレーズが浮かんでくる。
飲酒運転は自動車だけでなく、自転車でも禁止されている。「大丈夫ですか?」だけではダメだ。もう一つ、「酔って自転車に乗ったら、ダメですよ」の一言が足りなかった。

酔っぱらってこけちゃった人が、もう一人、記憶の中にいた。

ひと月ほど前の週末、午後15時過ぎ。吉祥寺駅近く、飲食店の店舗が並んでいるエリアに救急車のサイレンが迫ってきた。救急隊員が車を降りて向かっていった先を覗くと、飲食店の扉の前に、白髪の男性が一人地面にあおむけになっていた。

男性の傍らに、車いすに乗った女性がいる。女性に慌てている様子はなく、ただ座ったまま、男性を見下ろしている。車いすの背に押し手が付いているのが見えた。乗っている本人が漕ぐのではなく、誰かに押して動かしてもらうタイプの車いすだ。

救急隊員が、男性に声をかけている。
「お父さーん」
その声に反応し、男性が隊員のほうに顔を向けた。意識はあるようだ。
「あぁ」
寝起きに伸びをした際に思わず出るような声だ。
男性がゆっくりと体を起こそうとしている。女性の表情には変化がない。のっぺりとした顔のまま、ただ座っていた。
隊員が、男性に尋ねた。
「お父さん、飲みすぎちゃった?」

車いすの背には、買い物袋が下がっている。
食料品か日用品が入っている。
男性は、車いすの女性と一緒に買い物に来たのかもしれない。
女性を車いすに乗せて、繁華街まで押して連れてきた。よく晴れた日の昼下がり、用事を済ませて、気持ちが良かったのかもしれない。飲食店に入り、「ちょっと一杯」と思ったのだろう。つい、酔っぱらうまで飲んでしまった。そして、店の外で、こけちゃった。
救急車はしばらく停車したまま、患者の搬送のために動きだすことはなかった。男性に怪我はなかったようだ。

思い出した記憶に、「あの男性もたいした怪我がなくて良かった」と思い始めた時、私の脳内で「待て」が掛かった。

彼は、女性を車いすに乗せて、出かけた。途中でお酒を飲んでしまったが、再び車いすを押して帰るつもりだったに違いない。

「乗るなら、飲むな。飲むなら、乗るな」のキャッチフレーズは、
この男性の場合、「乗せるなら、飲むな。飲むなら、乗せるな」だろうか。

飲酒運転はあるが、飲酒歩行は聞いたことがない。車いすを押すのは、運転か?それとも歩行?

車いすを押すのは、自転車や自動車を運転するのとは別物で、飲酒していても関係ないのか。
いや、酔っぱらっていたら、介助や介護の対象者に怪我をさせるかもしれない。自分自身の力でどうにもできない人を危険にさらすのは、虐待に近いのではないか。

酔っぱらって、こけちゃった人。その人と、傍らにいた人。介助・介護する側、される側の関係性、危険のリスクやそれを避ける義務、責任といった言葉が、次から次へ沸いてきた。

大通りを走る車は少なく、静かな夜だ。
しかし、歩道を歩いている自分の足音はどこかへ消え、聞こえなくなっていた。

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