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【短編小説】「靉靆」

 都会の夜はどこか寂しく思える。
 青白い空も、いつまでも一人点滅している看板も、遠くで揺らいでいる電波塔も。全部自分のもののようにも思え、また世界の果てのようにも感じる。白い息の行方を目で辿ると、薄明の空が僕の頭上に横たわっていた。――みんなの知らない夜の姿、それを見るために僕は人より早く目を覚ます。
「おはよう、じいちゃん」
「えっと、お前は……たかし?」
「そう、だね」
 僕は目の前から歩いて来た、海老の如く腰の曲がった老人に声掛けた。朝靄が街を包み込んでいて、視界はフィルムカメラを通しているかのように思える。
「たかし、今日も寒いな」
「じいちゃん、それ肌着じゃない? 僕の上着貸すよ」
「そうか、ありがとう」
 その小さく震える背中に紺色の上着をそっと掛けた。
 じいちゃんは、僕のじいちゃんではない。近所に住む夏目さん宅の老人だ。朝早くから街を徘徊しているから、散歩じじい、なんて呼ばれている。最初は挨拶を交わすくらいだったのだが、日を追うごとに仲が深まり、共に夜明けを歩く、時間の共有者となった。
「たかし、最近野球はやっとるかいな?」
「うーん、最近はあんまりかなぁ。勉強が忙しくて」
「また、たかしが野球やってるところ見ないなぁ」
 じいちゃんこと夏目さんは、今年で八十八歳になる。それにしては歩ける方だと思う。僕が意識してペースを落とさずとも、隣を着いて来てくれる。
「たかし、登って行くか?」
「うん」
 夏目さん宅は屋上がある大きな家だ。アパートに母と二人住みの僕にとっては、少し羨ましく見える。しかし、僕らが目指すのは屋根だ。そこに寝っ転がって星を見るのが最近の日課なのだ。夏目さん一人では危ないので、僕が支えてあげるが、老人扱いは好きではないらしい。少し不満そうに頭を下げる。
「今日は、星が綺麗に見えるなぁ」
「そうだね」
 青白い空に、輝く星は金平糖のようでとても小さい。田舎の星は綺麗だと言うが、都会の星も悪くはない。見えるものは限られているが、だからこそ特別に思える。夏目さんは、何でも知っている。何でも知っているからこそ、多くは語らない。
「じいちゃん」と口にした。
 夏目さん、と最初は呼んでいたが、じいちゃんと呼ぶと夏目さんは嬉しそうな表情を浮かべる。
「そう言えば、たかしは大学どうするんだ?」
「まだ色々悩んでるとこ」
「そうか。たかしも大学生かぁ」
「そうだね」
「寂しくなるなぁ」
 夏目さんと星を眺めていると、必ず星が流れる。実際、三度の願いを唱える余裕などなく、目で追うのも大変だ。
「また、たかしと旅行行きたいなぁ」
「……、――あのね、じいちゃん」
「ん? どうした?」
「いや、――何でもない」
 肌寒さを忘れる頃、街はゆっくりと目を覚ます。朝靄も晴れて、いつもの世界に戻る。僕は夏目さんと別れて、家へ戻る。そうして、用意された朝ご飯を食べ、学校の準備をする。終わらない夢のようにも思える毎日、しかしそれは音も無く過ぎ去って行く。人生という世界において、僕たち二人は金平糖よりも小さな存在なのだから。

 ◇

 朝は本当に寂しく思える。
 一人だからなのか、――きっと、そうだろう。僕は夏目さん宅へ向かった。昨日まで人集りができていた玄関は、すっかりと、全て無かったかのように元に戻っていた。
 チャイムを鳴らすと、夏目さんが顔を出した。夏目さん、――言うならば、ばあちゃんだろう。
「夏目さん」
「あら、いらっしゃい。お茶出すわね」
 言われるがまま、居間に足を運んだ。目の前に鎮座する仏壇に線香を立てた。小さく手を合わせる。朝に顔を見ない日が続いていたが、まさかこうも静かに居なくなってしまうとは思ってもみなかった。
「じいさんは認知症でね。孫が死んでからはどこか寂しそうだったんだけど、最近は楽しそうでね。それもたかしくんのおかげだよね」
「……、――」
「そう、よね……たかしくんって呼んでるけど、本当は違うんだよね」
「はい、僕は謙也って言います」
「ごめんね。じいさんから話を聞いていて、そうじゃないかなって思ってたけど、言い出せなくて」
「お孫さんはたかしくんって言うんですね。野球好きの」
「そうなのよ。だからじいさんはきっと、あなたのこと――、」
「いや」
 大丈夫です、と言葉を遮った。最初から気付いていたから。そう知っていたから。お茶を飲み干し、僕は夏目さん宅を後にした。また来ますと、言い残して。

 ◇

 まだ、空に薄い月が浮かんでいた。
 都会の夜はどこか寂しい、僕はそう口にした。二人で歩いて居ても、彼にはきっと、僕は見えていなかった。
「寂しいなぁ」
 街には朝靄がかかっていた。だからきっと、今日は晴れるだろう。いつもは嬉しいはずの晴れが今日は少し憎かった。
 彼を想った。
 いつか夏目さんが呟いていた。
 会いたい、と。だとすれば、本当に僕は、たかしだったのだろうか。そんなことを考えながら、夜を歩いた。いつかの流れ星を待ち侘びながら。
 会いたい、そう文字を打った時、変換に出てきた「靉靆」という言葉。家に戻ってから、不思議とその意を調べてみようと思った。


〈了〉

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