一流の平凡で在りたい
ダンスが専門なのにダンスのことを殆ど書かないのは職務怠慢か、と反省してたまには書いてみようと思う。と言っても読者の皆さんのためになる内容ではないことは最初に言っておく。
人見知りで対人恐怖症だった人間が恥ずかしげもなく人前で踊ることを生業に選ぶとはこれいかに、と今でもずっと悶々としている。押し殺していた表現欲求が何らかのキッカケで開花し「ダンス最高!他人に観て貰うの快感!」となった訳だが内向的な性格は完全に淘汰されておらずセンターで堂々と主役を張り賞賛の拍手を浴びて陶酔するタイプには成りきれなかった。ダンスに疎い旧友から「へぇー、どんなダンスしてるの?ミュージカルスターみたいなやつ?それとも白鳥の湖の王子?」などと聞かれる度に答えようがなくて「うーん、まあそんな感じ…」と苦笑しながら濁った答えしか出来ない自分が歯痒いが真実だから仕方がない。
そんな訳で自分自身の居場所はバイプレイヤー、もしくは舞台の書き割り、である。
ヒーロー・ヒロインの引き立て役のちょい悪役だったりヘラヘラした頼りない友人だったり主役がその前で愛を誓う松の木だったり。そういう役どころには小賢しい表現テクニックなど要らなくて普段通り自然に振る舞っていれば何故か成立してしまう。逆に数少ない主役経験を振り返ってみると理想のヒーロー像に近づけるために夜も眠れないほどの表現研究をし続けるというストレスの思い出しか無い。
役柄を設定される舞台に数多く立ってきたからか、純粋にダンスに向かい始めたのはだいぶ後になってからだ。脇役、しかもかなりクセの強い役を得意としていた影響からなのか、観て好むダンスも実際に動いて心地好いダンスもエンターテイメント性の強いメインストリームのダンスではなく抽象的なコンテンポラリーダンスとなった。
バレエ界に革新をもたらしたウィリアム・フォーサイスがパソコン上でダンサーの四肢に点を打ちその点の動きを予めインプットした軌跡で構成されるフォーマットをダンサーが正確に辿るという今では当たり前となったモーションキャプチャーの先駆けのような事をしていたり、リレハンメルオリンピックの開会式の演出を手掛けたフィリップ・ドゥクフレが映像にダンスの表現の可能性を広げたり、コンテンポラリー専門のカンパニーとしてはおそらく世界一のNDTが初代芸術監督のイリ・キリアンの潮流を今もなお受け継いでいたり、それらの革新的且つグローバルな在り方が僕にとっては本当に心地良かった。
一方で自分の身体の中に蠢く感情だけにひたすら向き合う内向型のコンテンポラリーダンスも多く存在し、これは果たして観て楽しいものなのか…と生理的に嫌悪感を抱く舞台も沢山観てきた。
人間は誰しも闇を抱えており世の中は狂気に満ちている。というより狂気がデフォルトだからこそ美を求めるのだろう。前述の内向型コンテンポラリーダンスの中には平和ボケしてしまっている作者が自分に内在しない狂気に憧れて作品を作っているケースがよく有り、その実感の伴わない狂気を僕は無意識に察知して嫌悪感を感じているらしいと最近分かってきた。勿論、闇と徹底的に向き合って生み出された秀作には嘘が無い。
整然と規則的に設計された建築や写実的にデッサンされ豊かな彩色で表された絵画を美しいと感じるか、ドロドロとした人間の内面を表現したアートを美しいと感じるか、それは人それぞれ。どちらにせよ、狂気を認めた上で遥か異次元レベルに昇華させたものが僕個人としては美しいと思う。
幸か不幸か、僕には殆ど闇というものが無い。そんな者が空想上の狂気ともんどりうって戦うような作品は「ちゃんと病んでいる人」に対して失礼極まりないし、美とは無縁の薄っぺらいポエムにしか成り得ない。ではひたすらドラクロワやコルビジェやシルヴィ・ギエムのような美を追求すりゃ良いのだがそこに到達するための糧となるべき狂気もまた持ち合わせていないため圧倒的な美も創り出す事が出来ない。
行き着いた先は「平凡でいい」だった。どこにでも在るありきたりな人やモノ。そこには感涙に咽ぶような美は内包されていないかもしれないが美にはないリアルな質量がある。平凡を平凡として表現するのは作品に豪華な羽を生やせたりブラックホール並みにとてつもない重さを持たせられる美の巨匠にはどう転んでも無理な作業なのだ。
年齢に反比例して健やかになる一方の心身を少しでも長持ちさせたい。そのためには高望みなどせずこの平凡な自分を受け入れて静かに余生を過ごしたいと改めて考えている。