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Johann Johannsson 『Englaborn』

長年音楽好きを吹聴してきてジャンルについては完璧に把握していると自負していた無知の若者にとって「ポストロック」というカテゴライズはまさに青天の霹靂だった。ま、それは言い過ぎだが「ロック」の定義ですらまともに理解していないナンチャッテ音楽評論家気取りの身としては直訳すると「ロックその後」は皆目見当もつかずドギマギしたものだ。そして後年、今度は「クラシカルクロスオーバー」というカテゴライズに再びドギマギすることになるのだが。

Johann Johanssonというアーティストを知ったのは彼のデビューアルバムでもある「Englaborn」との偶然の出会いがキッカケだった。確か渋谷か新宿のTower Recordで試聴機に入っていたそのアルバムを何の気なしに聴き始め、どの曲を聴いても救いの無いこの世の終わりのような作風に際限なく打ちのめされ何も無い荒野に独りポツンと取り残されているような気分に陥り、そこまで振り切った芸術に接した経験が無かった人間にはそれがカタルシスとなって全面的に受け入れ試聴機の前で人目も憚らず落涙していた。

これは偶然だと思いたいが、彼が亡くなったというニュースに打ちひしがれ追悼の気持ちで臨んだワークショップ中に誰も操作していないのにスタジオの照明が激しく点滅を繰り返したエピソードを毎年彼の命日に思い出しては嬉しいような哀しいような複雑な気分になる。もしかして、彼の曲を使ってしまうと感情のコントロールが効かなくなって皆の前で取り乱してしまうのを恐れてAdeleの曲で振付したことに彼が嫉妬したのかな?と勘繰るのは思い上がりか・・・

兎に角、そのエピソードに限らず彼の音楽は僕の感情と深く結びついている。第一印象こそ「この世の終わり」ではあったが、聴き込んでいくうちに決して哀しい曲ばかり生み出すアーティストではないのだと解る。現実に執着せずある種の潔い諦めが根底にどっかりと横たわっているから溢れ出る表現は一見悲しみに満ちているが、それは決して負の感情ではなく限りなく細い希望への望みなのかもしれないと感じるようになってきた。実際にこの足で彼の母国アイスランドを訪れたらそれは更に確信へと変わるのだろうと思っている。

嗚呼、どうして思い入れの深いアーティストについて書いていると客観的なレビューが書けないのか情けなくなる。これじゃあまるで余命を悟って自伝を自費出版した祖父と同じじゃないか。結局どんなに気取っても足掻いても世の中の事象と自分を紐付けたい性分からは逃れられないのだろうか。

とってつけたようになるが最後に「Englaborn」について少しだけ聞き齧りの情報を載せて締め括ろうと思う。

タイトルのEnglabornは「天使の子供たち」という意味。アイスランドの舞台劇のために作られた音楽で残酷極まりない内容に反して出来るだけ美しく仕立てようとの作者の意図があったという。B級映画やスプラッターホラーを好んで観ていたというエピソードにも納得。幾つかの映画のサウンドトラックを手掛けたのも必然であろう。中には膨大なスコアを書いたにも関わらず監督との意見の相違により完全に手を引いたりライバルの作曲家の作品の方が相応しいと進言しメインテーマの座は譲るという完璧主義者たる逸話も残している。初監督作品にして残念ながら遺作となった『最後にして最初の人類』(Amazon Primeで観れる)を観ると彼自身にしか彼の音楽が相応しい映画は撮れなかったと分かるだろう。


ちなみに上記のライバルとはMax Richterのこと。テーマ曲に選ばれたのは名曲“On the Nature of Daylight”。いつかMaxについてのレビューも書こうと思っているが、僕は彼ら二人が一心同体のように感じている所があってたまにどちらがどちらの作品なのか判別できない時があるので今回で二人のことを書き切った気分でもあるが、MaxにはJohannのような「付き纏う死」の匂いは感じないので改めて書く時にはだいぶ健やかな内容に落ち着くと思われる。

最後に。

この世は所詮残酷だ。だからこそ真逆の美しいものが救いとなるのかもしれない。いや、その美しさこそ人間の残忍性のもう一つの顔なのかもしれない。

おっと、Johannにも救われるアルバムがあった。

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