ひとはなぜ「鬱」になってしまうのか #駄論
本日、帰宅した私が、まず行ったことと言えば「手洗い」「消毒」であった。
コロナウイルスという大敵に侵されてしまった現代社会の“今”。
われわれ人間たちは日常あちらこちらで、彼らに対する虐殺行為に明けくれている。
アルコール消毒によって、コロナ感染の根本であるウイルスは撃退することができる(とされている)。
お仕事場でも、いろいろなところでシュッ、シュッ、と
奴らにとっては原子爆弾に匹敵する、
衛生科学の鉄槌をブチかましている毎日を、
今日もまた、重ねたわけである。
そこでふと思ったのである。
「いつまでこんな事、しないといけないんだろう....」
毎日、毎日、世間のあちらこちらでは、憎きコロナの撃退のため。
マスク着用の張り紙、消毒のお願い、体温測定機器の設置などなど、
まるで日本、いや世界の全てが一丸となって、
ウイルスという諸悪の根源に全力抵抗している。
鬼畜米、ならぬ、鬼畜Virus。
...おっと、
このままでは私がなんだか、
この全国民が力を合わせて目に見えない強敵と闘っているのに、
その輪を乱そうとする自己中心的で傲慢な人物のようにみえるではないか。
ダメダメ、そんなことはないのだから。
とか、そんな風に自分がつまらない言い換えをしたことを
テクニカルに、つまりは上手く流したあとで、本記事の内容を記そうね。
ここまで長過ぎ。
話の根本は、先に述べたウイルス消毒の話と重なる。
現代科学は、その力を持ってわれわれを日々危険にさらす
目に見えない細菌をはじめ、病気やその徴候を含む
ケガや体調の不良を改善することが、できる限り可能となった。
では聞こう。現代の科学技術さん。
なぜ、「鬱」はなくならないんですか?
ここでいう「鬱」とは、世に言う「気分障害」「気分変調症」に入るような
精神障害や疾患のことを指すのではないし、
ましてやその状態に陥った・陥っている人のことを指すのでもない。
つまりは、
「何かしらの理由もないのに、わが身体を襲い包み込む、重圧で鈍重な、抗えない憂鬱感。また、なぜかそうした気分になってしまう日常の瞬間」
のことである。われわれが持ちうる感情や気分の一種と考えて欲しい。
わかりやすい言葉に代えるならば「ネガティブモード」とかかな。
人にはよるとは思うが、しかし、それは「程度」の強弱であって「体験」の有無ではない。
われわれのこころというのは、当たり前に生きている日々の間に、
「...あ~、元気でないなぁ」
「...なんだか、何にもやる気がしないや」
「...○にたい」(自主規制)
こうした憂鬱な気持ちが入り込む隙間と瞬間を持ち合わせているのだ。
またこれから逃れることはできない。
というのも、「ネガティブ」と言い換えられるように、この感情の対義語は「ポジティブ」だ
これを気質(性格のタイプみたいなもの)と捉えて、
精神的にネガティブな人=内向(的)気質
精神的にポジティブな人=外向(的)気質
と、昔の人は考えたりしていたんだよね。ドイツとか、日本とかで。
これは、人間のこころは【基盤】のようなものがあって、そこから生じる様々の感情は、外部から操作することで、いささかコントロールできる。
「気持ちは捉えかた次第」という視点なわけだ。
なので、
ポジティブ思考の人はネガティブに陥りづらいだろうし、
ネガティブ思考の人はポジティブに陥りづらいのかもしれない。
そしてポジティブ思考の人間は、ネガティブ思考に陥らないようにするための行動を、ほぼ無意識に自分へ矯正(強制)している。
こんな感じ ↓
「ツライことがあっても笑顔でいる!!
そうすれば、気分も運気も前向きに立ち直れるから!!!」
「嫌なことがあった?
よし、それじゃあ今度の休みは、みんなで海行くぞ!!
なに?!キャンプがいいって?
どっちもいくぞ!!」
・・・
言っておくが、私にはそんなことできないッス...。
正直、熱血ぐいぐいタイプ苦手だもん。
焦げるわ。
さて、こんな人たちについて私が思うのは、
あたかもまるで、自分たちがネガティブ状態に陥らないように。
いや、もっと言うならば
自分たちがネガティブなはずはないと言い聞かせるために。
一種の囚われのように、自然と生じてくる「鬱」な気分に抵抗を図っているように映るのである。
行動の動機は十人十色だろうと、少なからずそこには、
今現在の気分や状態について、外部の刺激と変化を求めている。
気分の向上とは、現在の気分が少なくとも下落しているから生じる欲求なわけだ。
そういった形で、自分の気分に反抗を向けているのだろう。
では、そろそろにテーマだった
「なぜひとは鬱になるのか」
「なぜひとから鬱はなくならないのか」
に立ち戻ってみてみよう。
元来、「鬱」という気分の状態は、それすなわち「病」のことでなく
「さまざまの病」によって引き起こされる「症状(病的状態)」の一種である。
なので、診断基準によって「うつ病(気分障害)」という名が、イコール「鬱」を発症しているのではなく、
「鬱」という主な気分によって生じる、行動力の低下や食欲減退、ネガティブ思考、悲壮感、
などなどが「症状」として、その複合として形成しているわけだ。
※まぁ、逆に考える方が正しい視点もあるのだけれど
結局、言いたいのは、「鬱」という気分は「病」ではない。
人がもつ不調の一種だ。
すなわち、だれもが持ちうる「(それこそ)気分」の一種だ。
そこには、そうした気分をもたらすものには、他の感覚や、感情などが関連してくる。
たとえば「不安」などだ。
朝、起きて支度を済ませる。
そうして仕事や学校へ急ぐのは、人間の日常の一つだろう。
その道中。ふと思う。
「先日、失敗したな。今日もだれかに叱られたりするかも...」
「そういえば大事な集まりがあったな。行きたくないけれど...」
「朝から早起きして、だるいな~。なんでこんなことしないと...」
「今日月曜日じゃん。また五日間休めないのか...」
後ろ向きな感情を沸き立てるのは、まだ未確定な今日。これからの今日に起こるかもしれない嫌なことたち。
もちろん起きないかもしれないし、予想通り目の当たりにするかもしれない。
そんな“かもしれない”を繰り返すうちに、人のこころは内側へ、
だんだんと「鬱」に陥っていく。
他にもわたしが感じた、「いつまで消毒ばかりの日々を送らないといけないのだろう」という
当たり前に過ぎ去ってきた日常への疑問。
そこから生じる「不満」なども日々の間に
「鬱」をもたらす機会を設けてくれる。やったね。
こうすると、むしろ、いや当然?
毎日の中で「鬱」に陥らないようにする方が大変だろう
だからこそ、ポジティブ思考の人は、自らを強制するのだろうか。
そしてそれができない・対応できない人は「診断」によって、あたかもこちらが普通ではないかのように扱われるのだ。
思考によって気分を操作できる人がいるからといって、そちらの方が当たり前になることはおかしい。
そもそも操作が必要な状態になりうる環境や日々の方にビンタをかましてやる方が自然ではないか。
先んじて結論にうつれば、われわれから「鬱」がなくならないのは、
「明日もまた、変わらず生きていなければならないから」
これである。
さっき様々の感覚や感情が気分=「鬱」を引き起こしうるといった。
それらは往々に、「私たちの変わらない日常」によってもたらされる。
いや、「なぜか変わらない日常」だろうか。
人は些細なことで、物捉え方や感じ方、見え方・聴こえ方、理解の仕方が変容する。
にもかかわらず、われわれを取り囲む日常は、ガッチリした図体で、
昨日も、一昨日も、一昨昨日も、一一昨昨日も、
明日も、明後日も、明明後日も、明明明後日も、
きっと大きくは変わらないだろう。
昨日は気にならなかったマスクをする日々や消毒の日々も、
明日ではなぜか、不満がおきて、それに従っていた日々に憂鬱となる。
昔の日本にいた精神科医は、こころの不調の原因を
「気分と事実(外界)のあいだにおこる矛盾」
であるのではないかと考えた。
たとえ今日、体がダルくて調子が悪い(気がする)としても、
変わらずに外出へ向かわなければならない。
たとえ今日、大切にしていたコップを割ってしまって気分が落ち込んでも、
変わらずに街中を歩いて行かなければならない。
たとえ今日、大好きなグループのチケットを勝ち取ったとしても、
変わらずに明日までの時間を過ごさなければならない。
日常は、人間個人の気分変化を無視する。
だけでなく、その変化を社会の害悪として個人に帰す。
こうなれば、
「身体が不調であっても、普通でなければならない」
→ 「心身症」「気分症」
「悲しいことがあっても、それをむやみに顕現してはならない」
→ 「強迫性症状」「神経症」
「逆に楽しいことがあっても、時間の過ごし方は普段通りと変わらない」
→ 「分裂病」「社会性不調」
こういったものへ変わっていくのかもしれないだろうね。
日々を変わらずに生きていっていること。
それを自覚しながらも、毎日毎日生きていかなければならないこと。
それがあるから「鬱」がなくならないのではない。
問題なのは、
そうして生きていっていることが、
何も特別なことでなく、「あたりまえ」だと多くの人が同意していることだ。
そうした人たちが社会の多数はであることが、保証されていることだ。
であるからこそ、やはりタイトル通り
「鬱」はひとからなくならない。
少なくとも、現代社会の日常の中では...
〆
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