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アートが日常に溶け込むとき

りんごを見て、セザンヌを思い出す。

大人になってからアートに興味を持ち、西洋美術を学びはじめて1年。

ついに、スーパーで目に入ったりんごを見て、セザンヌが描いた『リンゴとオレンジのある静物画』を思い出すまでになった。

ポール・セザンヌ『リンゴとオレンジのある静物』1895-1900年

といっても、全っ然詳しくはありません。

でも、夕飯の買い出し中に「セザンヌ」のことを思い出せる大人になれたことは、我ながらちょっと嬉しい変化ではある。

この1年は、「ArtLOVER」というオンラインサロンに加入し、毎月1回の西洋美術講座を受けている。おかげさまで、ゴッホ・ピカソ・モネ・セザンヌ・マティス・ゴーギャン・シーレ…といった教科書に出てくるような有名画家たちの人生と作品に触れることができている。

加えて、ほぼ月に1回は美術館にも足を運ぶようになり、日常の中でアートに触れる時間は確実に増えていった。

そんな矢先、思いもしなかった話が舞い込んできた。

オンラインサロンの1周年記念の企画ということで、南青山にあるギャラリーに出展(グループ出展)をするというのだ。

南青山のギャラリーに?! 自分の作品を?! 出展する?!

なんと言うことでしょう!
人生において「ギャラリーに出展する」という体験ができるなんて!
想像もしていなかった……というか、想像するわけがないトンデモ案件ではないか!!!

貴重なチャンスだと思い、迷わずに決断したグループ展への参画。
そして、ここから人生初の作品づくりがはじまるであった。


終わりなき、正解なき、自己探究の旅のはじまり

作品づくりというのは、

あなたが表現したい世界はなんですか?

という「問い」に向き合うようなものだった。
しかし、こんな「問い」は今までされたことがない。

作品づくりは、普段なかなか味わえない角度からの自己探究であった。

そう、これって「普段なかなか味わえない」感覚なのだ。

普段のわたしは、人事のコンサルタントと大学の非常勤講師をしているのだが、どちらも言ってしまえば「クライアントワーク」である。

もちろんクリエイティブな側面は多分にあるのだけど、
クライアントが存在し、目的があり、問題を解決して、再現性を意識して仕事を進めているのは間違いない。

今回のアート活動には、クライアントは存在しない。
作品制作するわたしは、今この瞬間、己の内側から湧き出る欲求を問われているのだ。

こんな経験、大人になってからあったかなぁ……?

ふと、自分の人生を振り返る。
自由に表現を楽しんでいた幼少時代の記憶や、これまでの人生で心が動いた瞬間の記憶など……深く、自分の記憶と感情を思い返す作業。

それは終わりなき作業だけど、どこか心地の良いものでもあった。

アート表現とは、自分の内側と向き合うことからはじまるのだ。


自分の想いをカタチにする苦悩と喜び

ついに、表現のコンセプトが固まった。

うつくしい瞬間には、名前がある

自分がうつくしいと感じて切り取った季節や自然のワンシーンを調べてみると、
「季語」などの古来の日本語表現がすでに存在していることがよくある。

例えば、
紅葉した葉が太陽の光で照り輝いている風景。
光が透き通って見えて、うつくしいですよね。

紅葉美しい筑波山にて撮影

この現象を昔の人は「照葉(てりは)」と名付けた。
照葉は、秋の季語。

他にも、
今頃の季節、澄み渡った秋の空は高く広々と感じることがありますよね。

秋晴れの上智大学にて撮影

この空を、昔の人は「天高し」あるいは「秋高し」と表現した。
どちらも秋の季語。

自分がうつくしいと思った瞬間に「名前」があるということは、かつての誰かもうつくしいと感じた証拠。

この日本人の感性や表現を、未来に繋いでいきたい。絶やしたくない。
これが、わたしが実現したかった世界だった。

ここに行き着く原体験には、国語の先生であった亡き祖母の存在がある。それを語ると長くなるので今回は割愛するが、作品をとおして祖母との絆が深まったのは間違いない。

実際の作品は、「言葉と写真」の両方を用いて表現した。
自分で撮影した写真と、その写真にぴったりな季語と、その時の自分の心情を言葉で編んでゆく。

でも表現って、終わりも正解もない訳で。
制作の過程は、モヤモヤと不安がひっきりなしに訪れる。そして最終的には、自分が「完成」を決めなくてはならない。

当然苦悩もあったけれど、仲間の助けと天国の祖母のエールのおかげもあって、最後の最後には「直感」のような感覚で終わりが見えたような気がした。(と、自分に言い聞かせているという説もある)

こちらが完成した作品。
A4サイズの和紙10枚に印刷をし、春夏秋冬の一年間のうつろいを表現した。

1つ1つのパネル内容は、ぜひ、こちらのInstagramからご覧ください。
全ての写真と文章を書いています。


人間は、表現に喜びを感じる生き物なのかもしれない

自分の内側に溢れる感情、想いを表現したとき
エネルギーが湧きあがり、夢中になる自分を感じた。

ギャラリーで自分の表現を言葉にしたとき
内側の欲求を作品と言葉の両方で表現する喜びを感じた。

その内側にある欲求が「相手」に伝わったとき
想いを共有できた喜びが双方から湧き上がり、あたたかいエネルギーが循環していくのを感じた。

思えば、古代時代から人間という生き物は、
壁に絵を描き、歌い、踊り、音を泰で、モノを作るなど、
たくさんの表現活動を繰り返して、分かち合って、文化を築いてきたではないか。

そもそも人間は、表現をする生き物なんだ。

時代の変化と共に、コストや他者評価などを優先する(気にし過ぎる)世の中になってしまい、自由に表現する場が減ってしまった。けれど、本来の人間にとって表現活動はもっと自由で、もっと身近で、もっと楽しいものだったに違いない。

ジャッジなどない世界で、自分の内側にある欲求を表現していくことが、
これほど満たされる行為だとは思わなかった。

グループ展が終わった今でも、わたしは作品づくりを継続しようと決めている。
それが、わたしが目指す世界を実現するために、必要なことだと思うから。

表現活動は、自分のライフワークになった。

アートを学ぶ側、観る側だけでなく、つくる側になれた今、
ようやく、わたしの日常にアートが溶け込み出したような気がする。

大人になってからアートに興味を持ち、西洋美術を学びはじめて1年。
重い腰をあげて学び出した頃には、想像もつかないような変化が訪れた。

さて、次の1年はどんな変化があるのだろう。
今から楽しみである。

= お わ り =



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