楽して稼ぐことはきっとできないけれど、自分を壊してまで働かなくてもいい。
ナウルの人々が教えてくれた
“おカネを得る”ということ
今、あなたの目の前には1枚のチケットがある。ひらりと裏面に返すと、そこにはこう書かれている。
『おめでとうございます!このチケットを手にしたあなたは、もうこの先働かなくて大丈夫。お金の心配をしなくとも、あなたの口座には使っても使い切れないくらいのお金が毎月振り込まれます。しかも、教育費・病院代・電気代がぜ〜んぶタダ!そして結婚をすると、2LDKの新居もプレゼントします!さらにさらに、おまけで税金も無料にしちゃいましょう』
魔法のようなこのチケット。書かれている内容が、正真正銘叶うのだとすれば、きっと多くの人が喜ぶのではないだろうか。きっと私も例外ではない。電気代がタダなら冷房も暖房も付け放題じゃん!とか。毎月勝手に口座にお金が入ってくるならちょっくらバカンスで沖縄行くぜ!とためらいもなく、ファーストクラスの航空券を予約するだろう。
しかし、一通りの夢物語を想像した後にはきっと、そんな夢のような話が存在するのなら、連れてきておくれよ…と自ら現実の世界に自分を引き戻してくることだろう。
では、魔法チケットに書かれているような『働かずに、お金を手に入れる』ことは叶わぬ事なのだろうか?いや、そんなことはない。一昔前のとある国で、実際に夢物語のような生活を手に入れた人々がいるのだ。その舞台は、太平洋の赤道付近に浮かぶ『ナウル共和国』と呼ばれる小さな島国である。
◆働かずにお金を手に入れる、夢物語を実現した『ナウル共和国』
太平洋に浮かぶ小さな島国『ナウル共和国』は何も最初から夢物語の舞台だったわけではない。遥か昔の時代からこの島ではココナツの採集や漁業など自給自足の生活を送っていた。
想像するにお金が溢れんばかりの国のイメージからは程遠いこの国が夢物語の舞台となった理由。それはなんと『アホウドリの糞』である。ナウル共和国はサンゴ礁に集まったアホウドリの糞が堆積することで島になったと言われている。そんなアホウドリの糞とサンゴ礁は長い時期を経て“リン鉱石”と呼ばれる資源となる。リン鉱石は質の良い化学肥料になるのだ。
いち早く、この天然資源の価値に気付いた海外諸国によって戦時中のナウル国民はほぼ無給(リン鉱石で得た利益の5%)の労働を強いられた。他国の利益を生み出す駒の労働力として搾取されていたのである。
しかし、そんな状況が一変した1968年。ナウルが『ナウル共和国』として独立し、リン鉱石の資源が遂に自分達に帰属する資源となったのである。太平洋でリン鉱石を得られるほぼ唯一の島。この事実によってナウルは夢物語へのきっぷを遂に手にしたのであった。
国を挙げて採掘を行い、得た利益の半分は国家予算。残りは地方政府評議会によって採掘場の所有者に分配された。ここからはまさに夢のような生活。これまでの採集や漁業を中心とする生活はおろか、労働力として搾取される生活からは一変。食事は外国から輸入した缶詰。税金のない生活。教育費・病院代・電気代はタダ。飛行機をチャーターして海外へ買い物に行く人もいたという。
リン鉱石の採掘は、出稼ぎ労働者に任せきり。ナウル国民は遂に『まったく働かなくても、お金が得られる』状態に上り詰めたのである。独立から1980年代にかけてついには「世界でもっとも豊かな国」と呼ばれるようにもなった。
◆終わりを迎えた夢物語。それでも『働かずお金を得る』手段を模索したナウル国民
絵に描いたような夢物語。しかし、夢物語も遂には終わりを告げる。ご察しの通り、リン鉱石が枯渇したのだ。
実は以前から、リン鉱石は20世紀には枯渇すると予想されていた。しかし、あまり深刻に捉えていなかったナウル国民。採掘量を少しずつ減らしたり、かつてナウルを統治していた国に対して独立前に採掘した分の代償金の支払い請求を行うなど、その場しのぎの策を講じた。
さらに、リン鉱石が本格的に枯渇すると今度は、不動産投資や国のリゾート化。簡易に取得可能な国籍の販売に銀行の開設。様々な『自分達は働かずとも収入が得られる策』を次々と打ち出した。しかし、不動産収入だけで賄うことも出来ず。長年の採掘で穴だらけの土地はリゾート地化できず。税金のない国の銀行や、安易に取得できる国籍によってテロリストや訳アリ事情を抱えた人の資金の温床となってしまった。
一度覚えてしまった裕福な生活。一度働かずにお金を得られる経験をしてしまった以上、ナウルの人々は、その恩恵から抜け出せず目先の利益を追い求めるようになってしまったのである。
ここまでの話を聞いて、多くの人々はこのように思うかもしれない。
いやいや、天然資源なんていつか枯渇する事なんて目に見えているじゃないか。
働かずにお金を得続けようなんて、なんて甘い考えなんだ。
しかし、そのような指摘にナウル国民はもどかしい気持ちを抱いてしまうかもしれない。なぜなら、彼等には『働いてお金を得る』という発想自体がなかったからである。
◆『働く事』と『お金を得る事』が結びついていないかったナウル国民
アルバイトをすると、時給単位で給与が貰える。会社勤めをすると、月末に給与が貰える。私達の多くは『仕事をする』ことと『お金を得る事』が少なからず結びついている。ともすると“当たり前”として共通の概念と捉えられていそうなこの考えは、ナウルの人々にとっては決して当たり前ではなかったのである。
戦争前、採集や漁業などの自給自足による生活を営んでいたナウル国民。生産と消費の主体が一致していたため、お金が発生するという事がなかった。
そして、海外諸国の統治下にあった戦時中。労働は他国の採掘の為の行為であり、給与を得るどころか搾取の対象であった。そして、いよいよリン鉱石資源が全て自分達のものとなった独立後。“働くこと=出稼ぎ労働者が行うもの”。ナウル国民にとってのお金は“働かずとも、勝手に手に入るもの”という価値観になっていた。
ナウルの人々にとっては、『働く』と『お金が得られる』が結びつくものではなかった。
働いてもお金を得る必要がない状態、あるいは働いてもお金を得ることは出来なかったのである。それゆえに、資源が枯渇した際に、どのように働けば収入を得られるのか。どうすれば『働いたらお金が得られる』の仕組みが分からなかったのである。
◆『仕事をする』とは何だろう。『お金を得る』とはどういう事だろう。
つい、『仕事』と『お金を得る』をイコールで結びつけてしまいがちな私達。しかし、ナウル国民の事例から分かるように、各々は必ずしも結びつかないらしい。では、両者の関係性は一体どのようなものなのだろうか。
『働く』と『お金を得る』の重なり合う部分。ここが、仕事をする=お金(収入)を得るという状態だ。そして、着目したいのが円が重ならない部分。『働く』が収入を得られない状態には、経営が赤字状態の企業の従業員が例として当てはまる。他にも、ナウルの事例で言う戦時中の労働力を搾取されて無給の状態が当てはまる。対し、『お金を得られる』が働かない状態には、労働力の搾取を行う側。あるいはナウルの事例で言う天然資源の消費状態。両親から無条件に貰う仕送りも類に入るだろう。なるほど、こう見ると『仕事』と『収入を得ること』は独立した存在のようだ。
『働く』あるいは『仕事をする』の定義は人それぞれだろう。”テレビを見る”というキーワード。ある人にとっては娯楽かもしれない。しかし、番組制作当事者にとっては自分の仕事を振り返る“仕事”の時間かもしれない。そんな形で定義は非常に曖昧だ。
しかし、1つ揺るぎない定義を挙げるのであれば、私は『仕事をすること』とは“資源を消費する行為だ”と考える。そして、『お金を得ることは資源の消費に対する、金銭的投資があることだ』と考える。
いやいや、仕事は何かの価値を生み出すものだ、という反論があるかもしれない。しかし、私は『仕事をする』こと、そして『お金を得る事』には必ず何かしらの“資源の消費”がつきまとう。そして資源は、下記の図のように4つに分類される。
自己所有か他己所有か。そして、元々あるか、生み出したものか。という区切りである。
例えば、アルバイトであれば、自己所有で元来ある『時間』や『体力』という資源を消費する。その消費に対する金銭的報酬が『時給』として支払われる。
ナウルでの事例であれば、他己所有(自己所有でない)で元来あるリン鉱石の消費によって金銭を獲得していた。ナウル人にとっての『お金を得る』行為は、『元々ある資源を消費する』行為だったと言える。魔法チケットを手に入れたいと願った私のように多くの人が考える“楽”に稼ぎたいという考え。多くの場合『自己所有の体力や時間を、その仕事に浪費したくないから』であって、出来る事なら『他己所有の資源を消費』してお金を得たいのである。
◆他己所有の資源には終わりがある。しかし、自己所有の資源にこそ終わりがある。
しかし、元来ある他己所有の資源はいつかは必ず枯渇してしまう。ナウル国民の事例がそれを示している。つまり、“楽”に他己所有の資源をただただ消費しっぱなしの生活には残念ながらいつか終わりが来てしまうのが現実なのである。
しかし、『楽にお金を稼げないのだから、頑張って働きましょう』なんてそんな説教がましいことをいうつもりはさらさらない。というか、地球に降り立ってまだ20年そこらの小娘の私にそんな上から目線なことを言われたくはないだろう。
私がどうしても言いたい事。それは『自己資源』にこそ終わりがある。という事である。
大学時代に、インターンをしていた私。自身の完璧主義な性格から、あまりにも働きすぎて身体を壊してしまった。私は私という大切な資源を。体力や時間。それも、人間にとって基本的な食事時間、睡眠時間を消費しすぎて食事と睡眠を摂ることが出来なくなってしまった。
自分の資源はリン鉱石と違って消費量が目には見えない。リン鉱石の枯渇の予測がなされていたように遥か昔から予測することはなかなか難しい。ましてや携帯の充電のように“残量は20%以下です”と表示されるわけでもない。
だからこそ、自分は本当に自分という資源を消費してその仕事をしていきたいのか。もちろんお金は単なる手段に過ぎない。たかが、お金でもある。しかし、そんな手段を得る手段として、その報酬は時間や体力を惜しみなく使いたいほどなのか。少し考えてみてほしい。限りある『自分』という資源を、その仕事に費やして行きたいのか。その行為によってお金を得ていきたいのか。
継続的に楽にお金を稼ぐ夢物語は残念ながら存在しない。ナウルのように楽してお金は稼げないけれど、自分という一番大切な資源を殺してまで働いてお金を稼がなくても良いのではないだろうか。一昔前の身体を壊してしまった自分の背中をさすりながら、語りかけてあげたい、そう強く思った。
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