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【小説】『メッセージ』第五章

☆あらすじ

成人式の日の夜、息子が階段から転落して死んだ。「110」という最後のメッセージを遺して――。死を目の前に、人はどんなメッセージを遺すのか。その疑問と真摯に向き合ったダイイングメッセージ・ミステリー



以前挙げた文章も一緒に載せておきます。

ちょっとずつ加筆修正しているので。

第五章を読みたい方は、以下の目次から飛んでください。




1「成人の日」


 息子の遊馬が二階から降りてきた。リビングの姿見の前に立ち、着慣れないスーツの襟に触れたり、裾を軽く引っ張ったりしている。

 ソファで朝のワイドショーを観ていた小山由美は、テレビをそのままに腰を浮かした。

 遊馬の背後に立ち、首を少し傾げて鏡を覗き込む。ネクタイを整える遊馬の顔はどこか曇っていた。これから一生に一度の晴れ舞台というのに、朝からどこかくたびれている様子だった。

 遊馬が目をこする。

「昨日、ちゃんと寝たの?」

「……別に」

 遊馬が前歯で唇を噛むのを見て、由美は目を細める。

「どうせ彼女と電話でもしてたんでしょ」

「はあ? ……んなんじゃねえよ」

 遊馬はリビングを出ていき、玄関に向かう。由美は後をついていった。遊馬が廊下の壁に置かれてあった段ボールに躓いた。小指をぶつけたらしく、文字にできないような声で悶えつつも、歩く足を止めない。

「やっぱり、私も行った方がいいんじゃない?」

「なんでだよ。過保護すぎんだろ」

 革靴に爪先を入れた遊馬に、靴ベラを渡す。

「でも、瑞月ちゃんのお母さん、一緒に行くって言ってたよ」

「他人と一緒にすんなよ」

 由美はそれ以上言い詰めなかった。遊馬は靴を履くのに少し手間がかかっていた。

「夜は帰ってくるの?」

「いや、帰んない。どうせ朝まで誰かといる。明日学校だから始発で茨城帰んなきゃいけないし」

「そう」

 何となくそんな気がしていたが、由美は少し残念がった。

「……あなたも大人になったのね」

 遊馬は何か考える素振りを見せてから、由美のことを見た。そこで今日初めて目が合った。

「じゃ、行ってくるわ」

 遊馬が扉を開けた。由美も一緒に外に出る。

 何か言葉を贈ろうと思ったが、由美は黙って見送ることにした。遊馬も遊馬で、振り返ることなく歩いていく。遠ざかる背中を、由美はじっと見つめる。

 ランドセルを背負っていた頃はまだ可愛げがあった。中学生、高校生とリュックに詰め込む量が多くなっていくのと同時に、愛想の無さが目立ってきた。激しい反抗があったわけではないが、親のお節介を鬱陶しく思い始めてきたのだろう。

 大学進学を機に親元を離れ、籠から放たれた鳥のように自由に生きているのだろうけど、その分責任も増えてくる。
息子は今、何を背負っているのだろう。

 遊馬の姿が見えなくなり、由美は家に戻った。

 リビングに行きテレビを消し、代わりにCDプレイヤーを起動させてクラシック音楽を流す。自分以外いなくなった家の中を掃除し始める。

 遊馬は生まれも育ちも東京都北区。進学先も東京の大学を志望していたが、受験に失敗し、後期に受けた茨城の大学に進学することになった。当時は本当に落ち込んでいたが、大学では周りの人たちと上手くやれているらしい。ずっと都会で育ってきたから不自由に暮らしているんじゃないかと心配していたが、住めば都とはよくいったもので、空が広くて穏やかな環境に馴染んでいるみたいだった。

 遊馬が実家に帰ってきたのは、一昨日の土曜日の夜。今日この日のために帰省してきたのだ。


 今日は一月十日。今年度の成人式が開かれる日だった。


 もうすぐ二十歳を迎える遊馬も、もちろん参加する。
成人式は北とぴあという施設で行われる。大きなホールや、音楽スタジオ、プラネタリウムなどが内在する文化施設だった。成人式はさくらホールという場所で開催される。遊馬は以前に訪れたことがあるから、迷うことはないだろう。

 瑞月は立派な振袖を着ているのだろうか。

 飯尾瑞月は遊馬の幼馴染で、彼女も今年成人を迎える。家が近所ということもあり、幼稚園、小学校と同じ場所で二人は育ってきた。遊馬の中学受験を機に付き合いは薄くなってしまったものの、大学受験後に久しぶりに会ったらしい。由美は向こうの親とは時たま連絡を取り合っていたが、二人の間にも絆が変わらずにあったことは素直に嬉しかった。

 毎年、年賀状を通じて彼女の成長ぶりは目にしていたが、もう何年も会っていない。彼女の晴れ着姿を見たいし、久しぶりに会いたいと思った。

 その思いが届いたのか、夜に彼女から電話がかかってきた。

 今夜は夫の順一は帰ってこない。友達と通話しながら夕食を済ませ、そろそろ風呂に入ろうかと思っていたときだった。

「あら、瑞月ちゃんからじゃない」

 彼女も今頃、遊馬と一緒に同窓会を楽しんでいるのだろう。もう晩い時間だし、帰り道だろうか。

 由美はスマホを耳に当てる。

「もしもし。瑞月ちゃん?」

「あ……遊馬の、お母さんですか」

「ええ、久しぶりね。同窓会、楽しんでる?」

 彼女はすぐに返事をしなかった。電話越しに言い淀んでいるのが分かる。

「……瑞月ちゃん?」

 由美は瑞月が泣いていることに気付いた。

「遊馬が……遊馬が……」

 後に続けられた瑞月の言葉に、頭を鈍器で殴られたような感覚がした。生まれてこのかた味わったことのない衝撃を受けた気がした。

 考えるよりも先に、身体が動いていた。

 玄関を飛び出し、夜道を自転車で駆け出した。

 電話越しの瑞月の言葉を一つずつ思い出す。落としそうになった携帯を両手で支えながら、飛びそうになった意識を保ちながら、鼓膜がつかんだ情報を頭の中で再生する。

「歩道橋の階段から落ちたみたいで……」

 何も考えられず、ただひたすらに漕ぐ。

「頭から血を流していて……」

 胸に込み上げてくる得体の知れない何かを必死に抑え込んで、がむしゃらに漕ぐ。

「動かないの……」

 奥歯を噛み締めた。息が荒い。運動不足だけが原因じゃない。

 横断歩道を渡るさなか、横からクラクションが鳴ったがそれも無視をした。途中、石段に乗り上げて自転車に乗ったまま倒れたけど、擦りむいた患部に目もくれず、また走り出した。

 あの曲がり角を曲がれば……。

 大通りに出た。晩い時間だから人の通りも車の通りも少ない。静かな夜の三叉路に架かる歩道橋が見えてきた。

 歩道にしゃがみこむ背中を目にして、それが瑞月だと分かる。

「瑞月ちゃん!」

 瑞月が振り返った。その拍子に、彼女の前に横たわる人影に気付いた。

 自転車が倒れる音。

 呼吸を忘れて、駆け寄った。

 夢の中なのか現実なのか分からぬまま、一歩ずつ。

「遊馬……」

 名前を呼んでも、返事は無かった。

「遊馬!」

 名前を叫んでも、返事は無かった。

 遊馬は朱色のレンガタイルに仰向けで横たわっていた。微塵も動く気配がない。頭のあたりに、黒い水溜まりができていた。

 瑞月のすすり泣く声に、自分が泣いていないことに気付いた。

「……救急車は?」

「連絡、しました……」

 瑞月が涙ながらに答えた。

 彼女の言う通り、まもなくして遠くからサイレンが聞こえてきた。静かな夜を裂くような甲高い音が近づいてくる。

 由美は遊馬の首筋に手を添える。

 脈は、無かった。

 救急車を呼ぶ必要は、無かった。

「……何これ?」

 遊馬の手元のレンガタイルに、血文字が遺されていた。自分の頭から流れ出たものをインクにして遺した最後のメッセージ。しかし、それは謎めいていて、何を表しているのか、由美には分からなかった。

110 



2「臨場」 


『警視庁から各局、上野署管内、上野駅構内で酒に酔った男性複数人による乱闘入電中。近い局どうぞ』

「機捜101向かいます」

 無線を手に取り、小山順一は応答した。隣で運転する大林はハンドルを切り、目の前の交差点を右折した。

 東京は夜になっても眠らない。トラブルのない夜などない。小山たちが所属する機動捜査隊の仕事は、事件や事故が発生した際にいち早く現場に駆け付け、初動捜査にあたることである。それ以外の時間は、捜査車両で街中をパトロールする。

「さっきから、酒関連のトラブルが多いっすね」

「今日は成人式だからな」

「ああ、なるほど」

「ろくに酒を知らねえバカがバカみたいに飲むから、俺たちの仕事が増えるんだよ」

「毎年、何かしらニュースになりますもんね。もっとも、僕もそのバカのうちの一人でしたけどね」

「なんかやらかしたのか?」

「さすがに事件を起こしたわけじゃありませんよ。飲みすぎて、女の子の洋服に吐いちゃったんすよ」

 順一は失笑した。

「それは最悪だな」

「苦い思い出です。もう、十年も前の話ですがね」

 成人とはいえ、まだまだガキばかりだ。旧友との再会に気分が高揚し、自分の飲める量も分からず酒を飲むから、至るところでトラブルが起きる。泥酔しようが、拳を交わそうが、それすらも若気の至りという名目で水に流し、彼らの武勇伝になるのだろう。苦い思い出と言いつつ誇らしげに語る、この相棒のように。

「そういえば、小山さんの息子さんって……」

「今頃、地元の奴らと呑んでるだろうな」

「やっぱり今年成人なんすね」

「まだ十九だけどな。同業者にしょっぴかれて、俺の顔に泥を塗るのだけはやめてほしいんだよなあ」

 遊馬の誕生日まであと数日ある。法的に未成年の扱いだが、周りの空気に圧されてどうせ得意顔で呑んでいるだろう。そもそも、大学に入って先輩とのコンパもあるだろうから、既に飲み慣れているのかもしれない。

「小山さんのお子さんなら大丈夫っすよ。親に似て、優秀だと思いますから」

「おだてるな。ずっと物書きしてる冴えない息子だよ」

「へえ、作家を目指してるんっすか?」

「さあな。好きで書いてるだけらしい」

「小山さんからは想像もつきませんけどね」

「バーカ。俺だって、高校時代までは文学少年だったんだぞ」

 大林が大きく驚いた。

 言ってしまってから、順一は後悔した。口の軽い大林に余計な情報を伝えると、班全体に広まるおそれがある。もはや黒歴史である自分の過去は、軽々しく口にするものではなかった。既に後の祭りであるが。
無線に再び通知が入った。

『警視庁から各局、滝野川署管内、男性が歩道橋の階段から転落した模様。近い局どうぞ』『機捜104向かいます』

 順一はしばらく無線をじっと見ていた。

「滝野川って、小山さんの家があるとこっすよね」

「ああ、まあな……」

 その後も大林と他愛もないことを喋っていたが、順一は彼の話を少し上の空で聞いていた。

 しばらくしてから、順一の携帯が鳴った。順一はパンツのポケットからスマホを取り出す。

「松野さん?」

 順一は呟いた。

「104は滝野川の方に行きましたよね」

 松野のコールサインは104。先ほど無線でやり取りがあったように、滝野川署管内で起きた転落事件の現場に向かったはずだ。松野がいったい何の用だろう。

「はい、小山です。どうしました?」

 電話越し、松野の咳払いが聞こえる。

『小山、落ちついて聞け』

 松野がそう前置きしてから告げたのは、遊馬の訃報だった。


 遊馬が進学のために茨城に飛んでからは、遊馬と会えていなかった。たまに実家に帰ってきていたが、順一の当番の日と重なってしまうことが多かった。一方の遊馬も、東京の友達と遊びに出かけて晩くに帰ってくるものだから、お互い顔を合わせる機会はほぼ無かった。

 遊馬は年を重ねるごとに不愛想になっていったから、わざわざ父親に話しかけることもしなかった。かといって順一も自ら歩み出ることはしなかった。変なプライドが堰になってしまっていたのだ。
いつかきっと親子水入らずで話せるときが来る。

 一緒に呑みにいけば、何の意味もないプライドなど拭い去れる。
きっと遊馬にも話したいことが、訊きたいことがあるはずだ。
いつか、そのうちいつか。

 そんな風にして、息子とちゃんと向き合うことを先延ばしにしていた。

 順一は、こんな形で息子と向き合わなければいけないことに、神でもなく、運命でもなく、刑事という仕事でもなく、自分を恨んだ。

 松野の連絡を受けてから、大林に無理やり目的地の変更を命じて滝野川に向かわせた。統率を疎かにするような行動に、大林は渋っていたが、事情を話すと分かってくれた。

 本郷通りを北上していると、やがて見慣れた歩道橋が姿を現した。
現場付近の路肩のスペースに大林は車を停めた。
順一はすぐさま降車し、現場に降り立った。

 パトカーの赤いランプが、煩わしい夜を照らしていた。捜査員の声が飛び交い、足音が響き合っていたが、遊馬の姿を目にした瞬間、世界の音は鼓膜まで辿り着かなくなった。

「遊馬……」

 一歩ずつ、徐々に早まっていく足取り。

 順一が遊馬の元に着く前に、遺体は担架に乗せられてしまった。ブルーシートをかけられ、遊馬の姿が見えなくなる。順一はそれが警察車両に運ばれるまで黙って見つめるだけしかできなかった。

「小山!」

 誰かに名前を叫ばれて、自分が喧騒の中に立っていることを思い出す。振り返ると、眉間に皺を寄せた松野がこっちへ来るところだった。順一よりも二年先輩の刑事で、第一機動捜査隊の班長でもある。

「上野の乱闘、すっぽかしたみてえだな。後でどうなるか知らねえぞ」

 松野が小声で囁く。

「すみません。責任は全て俺が取ります。どんな処分でも覚悟の上です。好きにしてもらって構いません。ただし、事件解決までは目を瞑ってください……息子が、死んだんです」

 順一の覚悟を悟ってくれたからか、松野は何度か首を縦に振り、手帳を取り出した。事件の概要について報告を始めた。

「被害者は小山遊馬、十九歳。死因は転落死。そこの歩道橋の上から何者かに突き落とされた。死亡推定時刻は午後十時から十時半の間。被害者は同窓会の帰り道だったらしい。第一発見者は飯尾瑞月、被害者の幼馴染だそうだ……知ってるか?」

 順一はかぶりを振った。

「あ、そう……」

 松野は報告を続ける。

「飯尾瑞月の証言では、十時を過ぎた頃、飲み会中に喧嘩が勃発したらしい。被害者もその喧嘩をしていたうちの一人で、居心地が悪くなったのか、お開きの前に帰ったらしい。被害者は結構飲んでいたこともあり、心配になった飯尾瑞月が後を追いかけたところ、歩道橋の下で倒れているあんたの息子を発見したってわけだ。通報が入ったのが十時三十四分。つまり、ざっくり十時から十時半の間の犯行と考えられるってわけだ」

「事故死の可能性はないんっすか?」

 大林が質問する。

「状況的にみて他殺だな。まず、被害者の携帯電話が見つかっていない。飯尾瑞月は飲み会の席で被害者のスマホを目にしている。転落と同時に落としたとも考えられるが、現場付近から見つかっていないことを踏まえると、何者かによって盗まれた可能性が濃厚だ」

「もしかしたら被害者のスマホに、犯人にとって都合の悪いデータが入っていたってことっすかね。それが原因で揉み合いになって、被害者は階段から突き落とされた……」

「ああ。被害者の携帯を調べられたくなかったから、犯人は犯行後に持ち去った。そう考えるのが自然だろ」

 順一も大橋と松野の見解に異論は無かった。もっとも、遊馬の携帯にどんなデータが入っていたのか、仮の検討もつかないが。

「それからなんだが……」

 松野が渋い顔をつくり、歩き出した。順一と大林は後を追う。

 松野が案内したのは、階段下の遊馬が倒れていたと思われる場所だった。チョークで書かれた人型のシルエットが象られている。頭のあたりには赤黒い血痕が残っていた。

「ん? 何っすかあれ……」

 右手のあたりに「110」という謎の数字が血で書かれていた。

「被害者の右手人差し指に血痕が付着していたから、被害者自身が書かれたものだろうな。受け入れ難いが、俗にいうダイイング・メッセージだ。『110』という数字に心当たりあるか?」

 110……。

 ダイイング・メッセージ……。

「小山さん?」

「ああ、いや……特別心当たりはない」

 順一はぼそりと呟いた。

「そういや、今日って一月十日ですよね。110っすよ」

「それが何だって言うんだよ」

「いや、分からないっす」

 大林はどこか不満そうに首を傾げた。

「まあいい。とりあえず、こんなものが残されているってことはただの事故死じゃないことは明白だ。携帯のことも踏まえて、他殺のセンで進めていくのが妥当だろう」

 遊馬は、何者かによって殺された。

 心の中で何度も繰り返す。その度に、だんだんと拳に力が加わってく。

「今のところ、分かっているのはそんなところだ」

 そう言って松野は背を向けたが、すぐに何かを思い出したように戻ってきた。

「ああ、そうだ。あそこに停まっている車あるだろ」

 松野が少し離れたところに停車している黒い車を指差した。

「あそこにおまえのカミさんがいる」

「妻が?」

「飯尾瑞月が電話したそうだ。おまえとは違って、母親は息子の旧友と繋がっていたみたいだな」

 松野はそう言って背中を見せ、捜査を再開し始めた。
最後の一言は余計だと思うが、順一は何も言わなかった。どんな言い訳をしても、自分の不甲斐なさが露呈するだけだった。

 順一はポケットに手を突っ込み、由美が乗っているという車へ向かった。

 後部座席の窓から中を覗くと、一人の捜査員が運転席に、由美が後部座席の中央に座っていた。物憂げな顔で俯いている。

 順一は扉を開けた。

「あなた……」

 由美は奥の方に寄った。空いたスペースに順一は腰を休める。運転席の捜査員に一声かけ、退席してもらうようにお願いした。

 夜よりも静かに、二人は沈黙した。

 しばらくの間、外よりも冷たい空気が二人を包んだ。

「……大丈夫か?」

「もう、分からない……なんで、遊馬が……」

 由美は頭を抱えた。

「犯人は……絶対に捕まる。いや、捕まえる。だから……」

「犯人が捕まったって」

 由美が遮った。

「遊馬が帰ってくるわけじゃない……」

 順一は何も言い返せなかった。

「……すまない」

 言葉が見つからず、順一は車を出た。

 空を仰ぐと、上弦の月。

 白い息が立ち昇る。

 順一は右手で拳をつくって、心臓のあたりを叩いた。



3「憂鬱な朝」


 息子を失ってから初めて迎えた朝、痛々しいくらい澄んだ青空が広がっていた。もう遊馬はいないけれど、世界は姿かたちを変えない。何事もなかったかのように、地球は回っていく。

 由美はリビングのソファに横たわり、カーテンの隙間から空を睨んでいた。途中で、洗濯物を回していないことに気付いた。気力が無いから今日はやめよう。

 壁に架かった時計を見る。既に十時を回っていたが、朝食を摂っていない。食欲は無かった。普段なら既に出勤している時間だ。しかし、朝早くに仕事の休みの連絡はしておいた。事情が事情だけに、しばらく休暇を取ることを許された。

 自分だけが変わってしまった、由美はそう思った。

 二十年間共に生きてきた息子が突然いなくなってしまった。

 胸のあたりに大きな穴ができているような感覚が昨日の夜から消えない。

 瑞月から電話がかかってきてから、全てが変わってしまった。全部悪い夢であってほしかった。いつ覚めるんだろう、とバカなことを考えている。遊馬が死んだという事実を受け入れることは、どうしてもできなかった。

 昨日、現場に駆けつけたときは、状況が整理できていなかったからか、酷く落ち着いていたのを覚えている。やがて到着した刑事から訊かれたことにも淀みなく答えられた。夫が警察官だから、無意識のうちにちゃんとしなきゃいけないと思っていたのかもしれない。

 警察からの束縛に解放されてから、徐々に遊馬の死を実感し始めて心が萎れていった。家に帰ってから少し眠ったが、寝た気がしなかった。しかし身体は重く、今もこうしてソファに沈んでいる。

 そういえば、順一はどうしているんだろう。現場で一度話したけど、それからの行方は知らない。順一は今、機動捜査隊に配属されているから、主に初動捜査を担当するはずだ。長く捜査に関わることはできないけど、やれるだけのことはやろうと考えているのかもしれない。刑事として、犯人逮捕に力を尽くしたいのかもしれない。

 でも。

 犯人が捕まったところで、誰も救われない。遊馬が生き返るわけでもないし、自分の今の状況が好転するわけでもない。

 枕にしていたクッションを手に取り、顔に強く押し当てた。

 瞼の裏に、遊馬の顔が浮かんで来る。

 少年の頃のあどけない笑顔から、最近の不愛想だけどたくましい表情まで。

 もう目にすることのできない、遊馬の顔が浮かんで来る。

 浮かんでは、消えていった。 




4「空虚」  


 昨夜とはうってかわり、現場付近では車の通りも人の通りも激しかった。駒込、王子、田端の三駅の中間地点に位置する三叉路だから不思議はない。

 順一は車を降りると、首だけ左に回した。

 歩道橋のそびえる青空。

 順一の胸の内とは真逆で、どこまでもよく晴れていた。

 名残雪がしんしんと積もるだけで、自分の心には冬晴れが来ないんじゃないか。ずっとこのまま、震えながら生きていくんじゃないか。
遊馬の死の輪郭が、時間の経過と共にはっきりしてきた。

「小山さん、行きますよ」

 大林の一言に、順一は視線を正面に戻した。彼の後を追い、順一は滝野川会館の中へ入っていった。図書館や会議室などを利用できる文化施設で、入り口の目と鼻の先が現場だった。こういった公共施設の入り口には防犯カメラが設置されている。そこに真実が映っているんじゃないか、そう睨んで順一はこの場所を訪ねた。

 本当は昨夜のうちに確認しておきたかったのだが、施設は午後十時に閉館するため叶わなかった。したがって、朝の捜査会議の終わりと共に、真っ先にここへ来たのだ。

 捜査会議は管轄である滝野川警察署の一室で行われた。遊馬は階段の端で頭を切り出血していたが、それ以外に外傷は無かった。揉み合った形跡も無かったらしい。歩道橋上はアスファルトで鮮明な足跡を採取することはできなかったが、遊馬と飯尾瑞月のものと思われる足跡は残っていた。

 今後の捜査方針が立てられ、捜査会議は閉じられた。今後聞き込み等を通じて、事件の全体像がもっとはっきりしてくるだろう。

 松野の計らいもあり、順一も朝の捜査会議に参加することができた。相棒のよしみで、大林も一緒に参加し、今こうして捜査を始めている。

「警察です。入口の防犯カメラを確認したいんですが、よろしいですか?」

 窓口の女性が取り合ってもらい、警備室に案内してもらった。

 遊馬が歩道橋の上から突き落とされたのは、午後十時から十時半の間。つまり、その時間帯に怪しい人間が映っていたら、事件関係者である可能性が高い。例のダイイング・メッセージが本当に遊馬自身が書いたものかもはっきりするだろう。

 期待を込めて、録画された動画を見始めたのだが、順一と大林はすぐに落胆した。扉の前の大きな柱が妨げになって、歩道橋下の様子が全く分からなかったのだ。三十分間、疲れた目を見開きながら視聴したが、遊馬がいつ転落したのかも分からない。それでも、とりあえず何でもいいから情報を得ておこうと、視聴を続ける。

 十時三十三分、飯尾瑞月と思われる女性が柱の陰から現れた。とても慌てた様子である。驚いたからか、恐怖からか、瑞月は立てなくなっていた。華やかなドレスが汚れるのもためらわず、全身の力が抜けてしまったかのようにレンガタイルの上に座り込んでいた。やがてスマホを取り出し、どこかへ電話をかける。通報の時刻と一致しているから、救急に電話したのだろう。一度電話を切り、再びどこかへかけた。きっとその相手は由美だろう。松野の話では、飯尾瑞月が由美に遊馬の転落を知らせたと言っていた。案の定、数分後、画面左から由美が現れた。絶句して立ち尽くしている様子が、画面越しからでも分かった。やがて制服警官が到着し、松野をはじめ捜査員たちが臨場してきた。

 瑞月が現れるよりちょっと前に、遊馬が転落したと考えられるため、十時半前後の映像を巻き戻して再度確認したが、軽トラックが横切ったり、夜のランニングに励む人が通り過ぎるだけだった。

「収穫無しっすね」

 大林が静かに溢した。順一は不覚にも舌打ちをしてしまった。

 滝野川会館を後にして車に向かった。助手席の扉を開けようとして、順一は手を引っ込めた。

「そういえば、近くに学校があるな」

「それが何か?」

「遊馬たちがいた飲み屋は駒込方面。この歩道橋を渡ったということは、小学校前の道を通ったと考えられる。今時の小学校の正門には、防犯カメラがついているはずだ。二人の姿を確認できる」

 その小学校は遊馬の母校だった。同時に飯尾瑞月の母校でもある。

 順一と大林は小学校を訪れた。坂になっている大通りに面しているため、正門から校庭まで緩やかな上り坂になっている。坂の途中、壁に取り付けられた防犯カメラの存在を確認した。

 校庭では小学生たちがサッカーをしていた。半袖に短パンで駆け回っている。子どもは風の子とはよくいったものだ。順一は姿を見ているだけで寒気がした。

 インターホンで呼び出し、防犯カメラを見せてくれるよう依頼する。すぐに副校長を名乗る初老の男性が現れ、案内してくれた。

「あ、いました!」

 大林が声を上げる。

 小学校の正門前の坂を上る人影を確認する。フェンスが邪魔をして見にくいが、服装からして遊馬に違いなかった。時刻は十時十八分。

 その後、飯尾瑞月の姿も確認できた。時刻は十時二十二分。

「ん? 電話をかけている……」

 正門前の道を通り過ぎる際、何かを耳に当てて歩いていた。電話をかけているとみて間違いないだろう。

「遊馬君にかけているんですかね?」

 大林の意見に異論は無かった。

 このまま歩道橋を上り、転落した遊馬を発見したということか。

 遊馬を知る教師がいたら話を訊いてみようと思ったが、誰も残っていなかった。小学校卒業から八年も経つ。無理もない。

 順一たちは来た道を辿り、正門の外へ出た。順一は腕時計を一瞥してから上り坂を歩き始めた。

「なあ、大林」

「何っすか?」

「女子大生が、飲み会を離脱した男のことを心配して追いかけると思うか?」

「幼馴染ならありえるんじゃないですか?」

「昨日彼女の学歴について知ったんだが、遊馬とは中学も高校も大学も違う。頻繁に会うような仲じゃなかったはずだ。それなのに、旧友たちとの飲み会の席から抜け出すか?」

「つまり、飯尾瑞月には遊馬君を追いかける理由があったってことっすか?」

 坂を上り切り、次は歩道橋の階段を上り始める。

「飯尾瑞月は遊馬と二人きりになる瞬間が欲しかった。遊馬の携帯に保存された、自分に都合の悪いデータを削除してほしいと頼みたかったから」

「飯尾瑞月を、疑ってるんですか?」

 順一は立ち止まった。遊馬が転落したと思われる場所にいた。目の前に伸びる階段から見下ろし、レンガタイルに横たわる遊馬の幻想が一瞬だけ目を襲った。

 順一は腕時計を再び確認する。

「二分半」

「え?」

「学校正門前からこの場所までかかった時間だ。飯尾瑞月が正門の前の道を通ったのが午後十時二十二分。そのまま歩道橋を上ったら、少なくとも二十五分にはここに着く。通報があったのが三十三分。八分間の空白の時間があるってことだ」

 信号待ちをしていた車たちが動き出した。橋の下が煩わしくなる。

「その空白の八分間、彼らはこの歩道橋の上で会っていたんじゃないか」

 順一は推理を続ける。

「他にも気になることがある。どうして飯尾瑞月は歩道橋を使ったのかってことだ。久しぶりに旧友たちと会う同窓会ということもあり、彼女は華やかなドレスを着て、ヒールを履いていた。なおかつ酒が入っていた。体力的なことも考えて、わざわざ階段を上る選択肢を取ると思うか?」

「しかし、こうは考えられませんか? 歩道橋の上に立って、高いところから遊馬君を見つけようとした」

「それはないな」

 順一はすぐに否定する。

「飯尾瑞月は遊馬の家がどこにあるかを知っていたはずだ。幼稚園、小学校と一緒だったなら、一度くらい家に遊びに来たこともあるだろう。それに、飯尾瑞月の家の住所を調べたが、遊馬の家、つまり、俺の家からそう遠くない距離にあったから、その可能性は高い。住所を知っていたなら、歩道橋を使わずにそこの歩道を歩けばいい」

 順一は田端方面に伸びる歩道を顎で示した。

 すぐ近くには信号もある。滝野川会館が臨む反対側の歩道へ渡りたいなら、すぐ近くにある信号を渡ればいいだけのことだ。わざわざ歩道橋を使う必要はない。

「飯尾瑞月は遊馬と二人きりになる必要があった。偶然にも遊馬が途中で帰ることになったため、心配するという建前で遊馬の後を追った。なかなか見つからないため、彼女は遊馬に電話をかける。その様子を収めたのが正門の防犯カメラだ。その電話で二人は歩道橋の上で待ち合わせることを決めた」

 大林が話のバトンを受け取る。

「そしてその後、飯尾瑞月は遊馬君のスマホに保存されている不都合なデータを削除するように依頼した。しかし、そのさなか揉み合いになって、結果的に彼女は遊馬君を階段から突き落としてしまった」

「そういうことだ。あのダイイング・メッセージ『110』は『いいお』と読める。遊馬は小説を書いていた。ミステリー小説をな。犯人が現場にいることも踏まえると、死の間際、暗号めいたメッセージを書き遺すことも有り得なくはないだろう」

 一通り推理を説いたところで電話が鳴った。松野からだった。

「小山、おまえ、今どこにいる?」

「現場の、歩道橋の上ですが」

 通信の向こうで、松野がため息をつくのが分かる。

「おまえは、もう帰れ」

「は?」

「おまえの当直は既に終わっている。これ以上、おまえを捜査に付き合わせるわけにはいかない。有休を使って、少し休んでろ。心も身体もくたびれているはずだからな」

 冗談じゃない、順一は思った。

 息子が殺された事件を途中で投げ出して、真相が分からぬまま引き下がるわけにはいかない。

「犯人は飯尾瑞月かもしれません。歩道橋の上で遊馬と揉み合って……」

「今、別の捜査員が飯尾瑞月の家をあたったらしい。だが、不在だった。同居している祖母に話を聞くと、いつも通りの時間に大学へ行ったらしいが、彼女が今日大学に来た形跡がないようだ」

「大学に行ってない?」

「ああ。彼女と同じ授業を取っている友人に話が聞けた。これまで一度も休んだことがなかったから不思議に思っていたそうだ。彼女を見つけ次第、もう一度話を訊くつもりだ」

「だったら、俺も捜査に」

「俺たちは機捜だ。やるのは初動捜査だけ。後は、他の奴らに任せておけ」

「しかし!」

「小山!」

 松野が怒鳴った。電話越しでも圧が伝わってくる。

「隊長からの命令だ。どうか分かってくれよ」

 一方的に電話を切られる。スマホを地面に叩きつけたい衝動を、どうにかポケットの中に収めた。順一は両手を手すりに預けて項垂れる。

 大林も言葉を探しているようで、何も言わない。

 視線の先に、車の河。

 背中に感じる、太陽の体温。

 青空は、仰げなかった。



5「息子の居ない世界」 


 いつの間にか眠ってしまっていたみたいだった。昨夜はなかなか寝付けなかったけど、心身ともに疲弊していたのは間違いなかった。

 時計を見る。まもなく一時になろうとしていた。

 由美は起き上がり、キッチンへ向かった。薬缶に水を入れて沸かし始める。一度コーヒー豆の瓶を手にしたが、紅茶の茶葉の入ったケースに変えた。食器棚からティーポットを出した。

 インターホンが鳴った。

 メイクしていなかったから今はあまり人と会いたくなかったが、インターホンのカメラを確認すると訪ねてきたのが瑞月だと分かってほっとした。

「こんにちは」

 扉を開けると、瑞月が小さく頭を下げた。成人式の日ということもあり、昨日は華やかな服装をしていたが、今日はねずみ色のダッフルコートにジーンズという格好をしていた。

「瑞月ちゃん、どうしたの?」

「いや、その……お母さん、大丈夫かなと思って」

 由美は目を細めて微笑んだ。

「ありがとう。せっかくだし、上がっていきなさい。ちょうどお茶を淹れていたところだったの」

 由美は瑞月をリビングに案内した。由美がキッチンで紅茶を淹れている間、瑞月はソファに座って黙って待っていた。

 トレイの上にティーカップを置き、溢さないように運んでいった。ローテーブルの上にそっと置く。

 瑞月は紅茶を一口啜った。

「瑞月ちゃん、学校は?」

「休むことにしました。やっぱり気分が乗らなくて……」

「そうなの……本当ならね、遊馬は今日始発で茨城に帰るつもりだったみたい。どうせ朝まで誰かといるから家には帰らない、そう言って成人式に行ったのよ」

 瑞月は俯いたまま呟く。

「なんでこんなことになっちゃったんですかね……」

 本当に、なんでこんなことになってしまったんだろう。禅問答のように、いくら問い直しても答えが見つかることはない。

「遊馬はさ、同窓会、どんな感じだった?」

「え?」

「楽しくやってた?」

 瑞月は口角を上げた。

「ええ、楽しそうでした……」

 由美は何か裏の事情があると察した。物悲しい瑞月の笑顔が見てて辛くなった。

「瑞月ちゃん、本当のこと言っていいのよ。私も昨日ちょっと小耳に挟んだの。お友達と喧嘩したみたいじゃない」

 瑞月はゆっくり頷いた。

「お酒が入ってたってこともあると思うんですけど、男子は特に盛り上がちゃって。他人の悪口とか、卑猥なこととか。遊馬って、昔っから変なとこで真面目で、あんまりそういうこと言わないじゃないですか。それが周りの男子たちからすれば『ノリが悪い』とか『善人ぶってる』とか、そういう風に見えちゃったらしくて……」

「そう……」

「言われた遊馬も遊馬で火が付いちゃって、強く言い返したりしたんです。それの繰り返しで、結果、喧嘩みたいになっちゃって……酷くなる前にみんなが止めたんで、大事には至らなかったんですけど、遊馬が先帰るって言い出して、それで途中で抜け出したんです。お酒も結構入ってたから、私心配になってきて、後から追いかけたんです。そしたら、遊馬が……」

 少し重くなった空気が、二人の間に漂う。

「遊馬らしいわね…‥‥」

 由美が呟いた。

「優しい子なんだけどね、不器用だし、マイペースなところあるでしょ。それが仇になることもあるのよね。少し時間にルーズだったり、団体行動しなかったり。本人には悪気は無いんだけど、結果的に誰かに迷惑かけちゃったりするのよね」

「何となく、分かる気がします」

「そう?」

「昨日も、式典が終わってから、飲み会まで少し時間あるから仲良かった人たちでお茶しようってなったんですけど、遊馬はパスしたんです。訳を聞いても、『うん、ちょっとね』って言ってはぐらかしていました」

 式典後にどんな用事があったのだろう。誰かと会う約束でもしていたのだろうか。今でも関係が続いていた地元の友達は、それこそ瑞月くらいしかいなかっただろうから、その可能性は考えにくい。

 瑞月は続ける。

「せっかく久しぶりに地元の友達と会えたんだから、みんなとの時間を大切にしないのかなあって……ちょっと思っちゃいました。ごめんなさい」

「いいのよ、それが遊馬だから」

 その後も、由美は瑞月と一緒に遊馬との思い出を語り合った。こんな風にして誰かと遊馬のことを話していると、遊馬はまだ生きているんじゃないかって、そのうち家に帰ってくるんじゃないかって、そう思えた。しかし同時に、こうでもしなきゃ遊馬を感じられないと思うと、とてつもなくさびしくなる。いつまでも息子を感じるために、いつまでも誰かと語っていたかった。

 二人の話の腰を折ったのは、玄関から物音がしたからだった。まもなくしてリビングの扉が開き、順一が現れた。

「あなた……」

 順一は驚いた表情を浮かべた。まさか瑞月が自宅のリビングのソファに座っているなんて思いもしなかったのだろう。

 気まずい空気が流れる。

「君が、飯尾さんだったね。遊馬の旧友の」

「お邪魔してます」

 瑞月が小さく頭を下げると、順一は一歩を踏み出した。



「君が、遊馬を殺したのか?」



 場の空気が凍りつく。カーテンを揺らした窓風が三人の間を通り抜ける。

「ちょ、ちょっと、あなた。瑞月ちゃんが犯人なわけないでしょ」

 由美は立ち上がって反抗したが、順一はさらに歩み出た。

「疑わしい点がいくつかある」

 順一は推理を語り始めた。

 小学校の正門前の防犯カメラに映っている時間と通報時間を照らし合わせ「空白の八分間」があること、どうして歩道橋を上る必要があったのかということ、例のダイイング・メッセージ「110」は「いいお」を表していると考えられること。瑞月が遊馬を突き落とした犯人であると断言するように、順一は捲し立てた。

「とりあえず、納得のいく説明をしてもらおうか」

 瑞月は表情ひとつ変えずに順一の話を聞いていた。あまりに反応が薄いから、図星なんじゃないか、本当に瑞月が犯人なんじゃないかと疑ってしまった。一秒でもその可能性を考えた自分が嫌いになった。

「一つお訊きしますが」

 瑞月が口を開いた。両手を膝の上で組んで、順一のことを睨むように見ている。眼光が鋭かった。

「スマホはどこ行ったんです?」

「え?」

 順一が力のない声を出す。

「遊馬のスマホです。現場から見つかっていないんですよね。私が犯人だとしたら、遊馬のスマホを持っているってことになります。でも、私は遊馬を発見してからあそこを動いていませんよ」

「だ、だったら……ずっと隠し持っていたんだ。スマホくらいポケットにでも……」

「私は昨日、ドレスでした。ポケットはありません。一応、カバンは持っていましたけど、昨晩警察に調べられました。そもそもスマホを奪い去った犯人が第一発見者を装って、警察の方の前で隠し持っているなんてこと考えられなくないですか?」

 順一は口をへの字に曲げた。ゆっくりと俯角が大きくなっていく。まさか女子大生に論破されるとは順一も思っていなかっただろう。彼の背中から、刑事としてのプライドが揺れているのが透けて見える。

「確かに、私は電話をかけました。でも、繋がりませんでした。遊馬とは会っていません。私が歩道橋に上った理由は、彼がそこにいるかもしれないと思ったからです。遊馬は小学校の頃からあの歩道橋からの景色が好きでしたから。歩道橋の上で頭を冷やしているかも、そう思って上ったんです。結局歩道橋の上にはいなくて、そのまま反対側の歩道へ行こうと思って、滝野川会館前の階段を降りようとしたら、その階段の下に……」

 発見の瞬間を思い出したからか、瑞月は言葉に詰まり苦い顔をした。しかし、それよりも順一の顔の方が酷かった。顔色は青白く、指先は小刻みに震えている。

「あなた、座れば?」

 由美が促し、順一はソファに座った。由美はその隣に腰を下ろした。

「だったら……あの空白の八分間は……」

 順一は声を絞り出すように喋った。

「それは……私は歩道橋の上で考えごとをしていたんです。実は、私も同窓会を抜け出そうと思っていたんです。喧嘩の後の空気が好きじゃなかったし、ここにいたくないって思っちゃったんですよね。それで、遊馬を追いかけるのを建前に店から出たんです。歩道橋の上でいろんなことを考えました。私も二十年生きてきたんだなあとか、やっぱり人は変わっちゃうなあとか、お酒って厄介だなあとか、男子ってまだまだ子どもだなあとか……」

 泣きそうになったのか、瑞月は顔を上げて天井を見つめた。案の定、彼女の瞳は光っていた。

「あの歩道橋を通って毎日学校に行っていたんです。遊馬とは家が近いから、一緒に行くことも、一緒に帰ることも少なくありませんでした。あの頃は毎日が楽しくて、友達がいるのが嬉しくて、動いて、走って、叫んで……当時を思い返したり、同窓会で思ったことを整理してたら、八分経っちゃってたんだと思います」

 夜の歩道橋の上で、瑞月が手すりに腕を組んで景色を眺める姿が浮かぶ。由美のイメージでは、彼女の表情は暗く、寂しいものだった。

「それに」

 瑞月は気持ちを立て直して、順一に対する反論を続けた。

「あの『110』が私の苗字を表しているという推理もどうかと思います。確かに読めないことはありませんが、『いいお』を伝えないなら、ひらがなやカタカナで伝えれば済むだけのことです。そもそも、遊馬は私のことを『瑞月』と呼んでいました。仮に私を犯人だと伝えたいなら、呼び慣れている名前を書くと思います」

 瑞月は昔からはっきりとものをいう子だった。瞳を潤ませながらも、自分の主張をしっかりと言葉にする姿がたくましかった。

「死の間際、犯人の名前を暗号にして残すなんて、ミステリー小説の中だけの話です。私があの謎を無理やり解くのなら、犯人は警察官ですよ」

「え?」

 順一は顔を上げた。

「『110』といえば110番。警察官に結びつく数字です。名前を書かなかったのは、犯人の名前が分からなかったから。それでも警察官と分かるということは職質されたときに知ったからか、制服を着ていたからか。あるいはその両方か。警察の方なら、防犯カメラの映像とか現場の証拠とか改ざんできるんじゃないんですか? きっと警察官ですよ」

 順一の首は再び穂のように垂れた。知り合いの警察官の顔が浮かんでいるのかもしれない。

「とにもかくにも、私は犯人じゃありません」

 瑞月はきっぱりと言い放った。黙っている順一を見かねて、由美がフォローをする。

「ごめんね、瑞月ちゃん。主人も遊馬のことで必死なのよ……」

「大丈夫です。でも……そろそろ失礼しますね」

「そう?」

「はい。また来ます」

 そう言って、瑞月は荷物をまとめて立ち上がった。由美は玄関まで彼女を送った。後から、順一もやって来た。

「それじゃあ……」

 瑞月が軽く頭を下げて、扉を開こうとしたとき、順一が彼女の名前を呼んだ。振り返った瑞月に、順一は深々と頭を下げた。

「すまなかった。君のことを疑って……」

 順一のこんな姿を目にしたのは初めてかもしれない、由美は思った。

「大丈夫です。息子さんが亡くなって大変なことは、私も分かっているつもりです」

「そうか、ありがとう……一つ訊いてもいいかな」

「何です?」

「君もミステリー小説を読むのかい?」

 瑞月は順一から視線をそっと外した。靴棚の上の写真立てを目にして、結んだ唇をほどいた。

「昔から読んでいました。ミステリー好きの誰かさんの近くに、ずっといたんで……」



 その日の夕方、由美は順一と共にスーパーへ買い物に行った。夕食の材料を買いに行ったのだ。順一とこんな風にどこかへ出掛けるのも久しぶりのような気がした。

 今朝は心も身体もボロボロだったが、瑞月が訪ねてきてくれたことで少し気分が軽くなったのかもしれない。

 それに、少しでもいいから身体を動かしていた方がいい。元気ではないけれど、気分が良いわけでもないけれど、生きるのを止めてはいけない。

「なんでオムライス?」

 順一が驚いたように訊く。

「遊馬が好きだったのよ。知らなかったの?」

「ああ、そういえば。前に聞いたことあったかも……」

 いただきますをして、夕食を始める。

 食事中、話題はどうしても遊馬のことになってしまった。
でも、それでよかった。

 順一と共に遊馬のことを語る機会はこれまで少なかったからだ。順一は外食することが多かったし、家で食べるときもテレビに集中してろくに喋らなかった。

 今こうして遊馬のことを語り合う時間が愛しく思うのと同時に、遊馬の死があったから実現した運命を残酷に思った。

「そういえば、遊馬は茨城で一人暮らしだったな」

「そうよ。ちゃんと食べていたのかしらね」

 話の流れで思い出したことがあった。

「今だから言えることなんだけどね。第一志望校の大学に行けなかったでしょ?」

「ああ、受験に落ちたって聞いたけど」

「実は違うのよ。試験日を間違えたの」

「え?」

「ずっと勘違いしてたみたいで、結局試験すら受けてない。あのときの遊馬、人生で一番落ち込んでいたんじゃないかな」

「……そうだったのか」

 順一は少なからず衝撃を受けていた。

 由美は当時のことを思い出す。

 中学生の頃から決めていた進学先で、そのために勉強してきた。そんな第一志望校の試験日を間違えたのだ。その間違いに気づいたのは試験当日。あと三十分で試験が始まる時刻だった。遊馬は慌てて家を飛び出していったが、大学まではどう頑張っても一時間かかる。結局、間に合わず、遊馬の第一志望校の夢は間の抜けた幕引きを迎えた。

 遊馬は家に帰ってきてから、何も言わず、自分の部屋に閉じこもった。ベッドに横たわり、肩を震わせていた。

 酷く落胆していた遊馬のことを思って、順一には受験に落ちたと報告していた。保険で願書を出しておいた茨城の大学にどうにか受かったし、順一も特別興味があるわけではなさそうだったから、真実を隠すことにしたのだった。

 遊馬にはそういうドジな一面がある。そういえば昨日の朝も、廊下の段ボールに足をぶつけていた。そういった小さいことから、受験の試験日を間違えるという大失態までいろんなドジをしてきた。

 夕食を食べ終わり、由美が洗い物をしていると、順一の電話に着信があった。

「どうした、大林……え? 郵便局?……何でそんなところに……いや、心当たりねえな……そうか、分かった」

「どうかしたの?」

 順一が電話を切ってから、由美は訊ねた。

「遊馬が昨日、成人式の式典の後に、近くの郵便局を訪ねていることが分かった。配達物の郵送依頼をしたらしい」

「郵便局って、祝日でも開いてるのね」

「休日や祝日、時間外でもやっている窓口がある。そこを利用したんだろう。それにしても、なんで成人式後にわざわざ……」

「そういえば、瑞月ちゃんが言ってた。仲良い人たちとお茶する予定だったんだけど、遊馬は断ったって。その用事が郵便局に行くってことだったってこと?」

「何を、誰に贈ったんだ……」

 しばらく二人して考えていたが、結局答えは出ず終いだった。

 順一は席に着き、遊馬についてずっと語り合った。途中からお酒も入っているから、お互い感情的になってしまい、思わず涙を溢してしまうこともあった。それでも、過去の笑い話が救いになって、どうにか心を塞がずに済んだ。

 日付が回った頃、順一はソファに横になった。酔いつぶれてすぐに熟睡してしまった。今日は彼のうるさいいびきも愛おしいものだった。

 順一との会話は楽しかった。久しぶりに、家族らしい話ができて嬉しかった。

 ここに遊馬がいてくれたら、もう何もいらなかったのに。
順一の身体に毛布をかけ、由美は重たい瞼をこすった。

(つづく)

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