「自分にしかできない演奏」なんてものはない

私は(多少ですが)ピアノが弾け、一応アマチュアのオーケストラで下手くそながらヴァイオリンを弾いていた時期もあります。その上で、よく言われる「自分にしかできない演奏」なんてものがクラシックにありうるのかということについて考えたいのですが、これは正しくもあるし誤ってもいると思います

クラシック音楽の20世紀は、おおむね録音の時代でした。新しい作品を鑑賞するのではなく、過去の偉大な作曲家の作品をただひたすら鑑賞するということが行われてきており(それが衰退にもつながっているのですが)、その中では、楽器のソリストにおいてもオーケストラの演奏においても、「決定盤」と呼ばれるような名演奏と、「迷演奏」と言われるような多数の微妙な演奏が繰り広げられてきており、それらは録音されて世の中で聴かれてきました。

正直にいうと、もはや「クラシック(古典)」の音楽については、どの曲についても「決定盤」というような名演奏があり、現代の演奏はそうした名演奏をなぞって均一化してきています。どの演奏も一定の質が担保される一方で、「その人でないとできない演奏」なんてものは無くなってきているのです。

逆にいうと、録音技術がほぼ存在してなかった19世紀では、演奏はかなり多様であり、「その人にしかできない演奏」は多数あったと予想できます。実際、20世紀初頭の巨匠の演奏…(電気録音時代まで生き残っていてもまだノイズだらけのSPレコードだったり、多くは黎明期の蝋管蓄音機や、いわゆるピアノロールだったりしますが)においては、伝説上の存在とも言えるピアニストたちであるライニッケ、ブゾーニ、パパマン、プランテ、またピアニストとしても一流だった作曲家たちによる演奏も含めれば、サン=サーンス、グリーグ、マーラー、ドビュッシー、ラヴェルなどの演奏は現代でも聴くことができますが、多くは現代の演奏とかなり異なっています。
例えば、ライニッケによるモーツァルトのピアノ協奏曲のピアノロールを聞くと、モーツァルトなのにアルペジオが多用されていますし、ブゾーニのショパン演奏でも、例えばプレリュード第1番ハ長調は、非常に硬質で高速な演奏になっています。

作曲家の自殺自演についても、現代でいうところの名演奏とは全く違ったりします。例えばドピュシー演奏の「アラベスク第1番」や「月の光」をYoutubeで聴けますが、極めて個性的な演奏で、我々の常識と驚くほど違います。グリーグ演奏のものも、たとえば「春へ」は現代の演奏よりはるかに高速に演奏しています。

また、リズムの揺れを調べた研究もあり、それによると20世紀初頭のピアニストの演奏は振れ幅が現在より非常に大きいことがわかっています。それが均一化してきたのは1940年ごろと言われていて、これ以降はレコードの発達で「名演奏」が誰でもどこでも聴けるようになった結果、ピアニストの演奏はほぼ同じような似たり寄ったりになっていきます。これが不幸にも、クラシックのコンクールが「正確にどれだけ弾けたか大会」に退化していく原因でもあります。(正確性だけを競うならそれはもう芸術というよりスポーツだと私は思います。)

指揮においても同じで、こちらは20世紀前半ごろまではまだまだ個性豊かな演奏が多く、いわゆる四台巨匠であるトスカニーニ、メンゲルベルク、ワルター、フルトヴェングラーなどの演奏は良くも悪くも非常に個性的ですが、これも現代の名指揮者たちは、名演ではあるものの、当たり障りなく個性もない演奏に収束しています。これでは、音楽は死んでしまいます。

20世紀という時代は、クラシックの新曲が出現せず再現芸術にさせてしまったことも罪深いのですが、同時に演奏においても、誰かの名演奏のモノマネばかりになってしまったという意味で、演奏すら「再現芸術」と化してしまったことが、クラシック音楽を死に体に追いやった大きな原因と思います。

(だからというわけではないのですが、私の曲は、細かい指示をほとんど付けていません。今は私以外の誰も演奏するとかありえないわけですが、いつかは誰かに演奏してもらえるときには自由に演奏してください、という意味合いでそうしています)

追記(2023/10/18)

まとめると、「自分にしかできない演奏」はできないことはありません。それは以下の二つしかありません。
・ものすごく個性的な演奏をする
・めちゃくちゃ編曲して演奏する(※後日投稿した『「自分にしかできない演奏」をしてみた例』も読んでみてください)

それ以外は
・過去の巨匠の名演奏に近いしミスも少ないが没個性的で似たような演奏

になってしまうのというのが私の考えです。

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