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7日間ブックカバーチャレンジ DAY 3

ホセ・オルテガ・イ・ガセット(1930)『大衆の反逆』(神吉敬三訳、筑摩書房〈ちくま学芸文庫〉、1995年/寺田和夫訳、中央公論新社〈中公クラシックス〉、2002年/佐々木孝訳、岩波書店〈岩波文庫〉、2020年ほか)

 オルテガの言葉は、まるで鋭利なナイフである。時として攻撃的に感じるその表現は、端的に「大衆」が社会に充満している現象をすっぱ抜いて読者に知らしめる手段として、極めて有効に機能している。例えば、オルテガは大衆の特徴をこのように記している。

大衆とは、善い意味でも悪い意味でも、自分自身に特殊な価値を認めようとはせず、自分は「すべての人」と同じであると感じ、そのことに苦痛を覚えるどころか、他の人々と同一であると感ずることに喜びを見出しているすべての人のことである。(ちくま学芸文庫版 p.17、太字筆者)
彼ら(筆者注:大衆)の最大の関心事は自分の安楽な生活でありながら、その実、その安楽な生活の根拠には連帯責任を感じていないのである。[…]自分たちの役割は、それらを、あたかも生得的な権利ででもあるかのごとく、断乎として要求することにのみあると信じるのである。(同上 p.82、太字筆者)


 さらに、このような大衆は文明の発展により生み出されたと分析している。19世紀から20世紀にかけての人口増加や産業技術の進歩は、驚異的な成長をもたらした。大衆の反逆には、オルテガが「楽観的」と評するこのような功利もあった反面、極めて深刻な矛盾を内包していた。

しかし、その裏側は実に恐ろしい様相を呈している。裏面から見た大衆の反逆とは、人類の根本的な道徳的退廃に他ならないからである。(同上 p.179、太字筆者)

 オルテガは、文明が結果的につくり出した怠惰な人間を「慢心しきったお坊ちゃん」と揶揄している。そして、既存の文明や規範を無効化した近代ヨーロッパが、別の体系を創造する能力に欠けていたために、「無邪気さと原始性への後退が始まった」ことを指摘した。


 本書を読んでまず驚くのは、哲学者が書いたとは思えないほど「大衆」向けの作品であるということだ。難解な専門用語を使わず、断定的でハキハキとした短文で紡がれ、ほとんどの章が10ページ程度でまとめられており、誰でも気軽に手にとって読むことができてしまうような構成をとっている。
 しかし、その含蓄に富んだオルテガの文章は、決して略読を許さない。ページをめくるごとに、ここは咀嚼しなければならないと感じてしまう箇所が多すぎる。おかげで、手元の書はすっかり付箋だらけになってしまった。

 このような体裁になっているのは、本書が新聞紙上に発表された論文であることによるという(訳者解説より)。ジャーナリスト一家に生まれた哲学者オルテガが、新聞という大衆メディアで「貴族*」たる実践を行う政治的活動家としての一面もあった事実は、自ら「社会的な生**」を体現しようとしたことにほかならないだろう。

 『大衆の反逆』が刊行されてから今年で90年になるが、オルテガが警鐘を鳴らした大衆の生の増大は、収束するどころか今やヨーロッパだけでなく世界中で拡大しているといえよう。
 もしオルテガが現世に生きていたとしたら、この状況に対してどのような診断を下すのだろうか。


*貴族・・・「貴族とは、つねに自己を超克し、おのれの義務としおのれに対する要求として強く自覚しているものに向かって、既成の自己を超えてゆく態度を持っている勇敢な生の同義語である」(ちくま学芸文庫版 p.91)

**社会的な生(パブリック・ライフ)・・・「生」について、オルテガは以下のように言及している。
「生きるとは、この世界においてわれわれがかくあらんとする姿を自由に決定するよう、うむをいわさず強制されている自分を自覚することである」(同上 p.65、圏点原著→太字筆者)

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