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少し長い自己紹介~野球との出会い~

株式会社H&H代表の池畑です!
前回の記事の少し長い自己紹介~前編~は多くの方に「読んだよ!」とお声かけいただきました😊

今まで繋がりの無かった方にもnoteを通して繋がることができ、とても嬉しいと共に記事を書き続けるモチベーションにもなっております!

私たちが取り組んでいる事業やそれらを取り巻く環境について多くの方に知っていただくnoteを書き始めましたが、先ずは池畑健太とはどんな人間なのかを知っていただきたく、自己紹介を書くことにしました。

昔のことを書いていたら色々思い出してきて、前後編で終わりそうもないので、今回の
~野球との出会い~
~リハビリとの出会い~
~これからやっていきたいこと~
の4編で終えていきたいと思っています(今のところ)のでお付き合いください!!!


小学校時代~横須賀リトルファイターズ~

野球を始めたのは小学校1年生です。
きっかけは2歳上の兄が始めたからで、スポーツ始めるきっかけあるあるですね。兄も友達に誘われたからで、これもスポーツ始めるきっかけあるあるです。

当時は横浜市泉区にある緑園都市というところに住んでおり、「川上ラービー」というチームに入りました。

小学校低学年の時は球が顔に当たるのが怖いので、ゴロが飛んでくるとビビッて顔を背けて、目をボールから話してしまうので、コーチからは
「顔を背けるな!」
と怒鳴られてたことを鮮明に覚えています(笑)。

凄く下手で同級生が遠征に連れて行ってもらっているのに、自分は連れて行ってもらえず、居残りで練習をしていたので、それほど上手くなかったのだと思います(;^_^A

3年生で横須賀に引っ越すことになり、そこでも野球を続けました。
新しく入ったチームは「リトルファイターズ」というチームでした。

ここで奇跡が起こります!

夏休み中に転校したのですが、入部したのが学校が始まってからなので、1か月くらい野球から離れていました。
新しいチームに入り、初めて練習に参加したときのことです。

野球が上手くなってました…🤣🤣

「健太はめちゃくちゃ上手い!」と褒められたことを未だに覚えています。
なぜ上手くなったのかは謎ですが、きっと怒られることもないので、のびのびやった結果、元々の才能が出てきたのだと思っています。
恐れのない空間を作ることは才能を生かすことにはとても重要なことですね😁

4年生になる頃には6年生の試合に出るようになっていました。
当時の6年生は上手い人ばかりで、マクドナルド杯という全国大会出場をかけた神奈川県大会の準決勝まで進むくらいのチームでした。
そんなチームで4年生から出れるわけですから、めちゃくちゃ上手かったと自分でも思っています(笑)

しかし当時はJリーグが開幕し、空前のサッカーブーム!
みんなサッカーに流れて、私が6年生になる頃には同級生は3名だけになり、私がキャプテンとなったチームは6年生3名、5年生3名、4年生3名という、どうみても勝てない構成のチームになってしまいました😓

しかし、私ともう1人がめちゃくちゃ上手かったので、私が1番ショート、もう1人が4番でピッチャーの実質2人の活躍で、なんと県大会準優勝まで行くことができました。
もう打っていた記憶しかありません!
池畑家は試合でヒットを打つと1本につき100円という出来高制のお小遣い制度だったのですが、荒稼ぎしていた記憶があります😁
実力主義、拝金主義(笑)の考え方は小学生で培われました🤣!

横須賀選抜にも選ばれ、ここが野球人生のピークでした・・・。

中学時代~横須賀スターズ~

中学は中学校の部活の野球部ではなく、軟式のクラブチームに入りました。
硬式のシニアという選択肢もあったのですが、「横須賀スターズ」は小学校のチームのめちゃくちゃ上手い先輩がいたのと、毎年のように全国大会に出ていたので、迷わず入部することにしました。

このチームの先輩は上地雄輔さん.。
私が入部したころには横浜高校で活躍されており、憧れの存在でしたが、まさかここまで有名人になるとは・・・

同級生も上手いメンバーがたくさんいて、3年生の時には年間で2敗(関東大会決勝と全国大会のみ)でとても強かったです。
海外遠征に行ったりと沢山良い経験をさせていただきました。
同級生は横浜ベイスターズに入団した内藤雄太
一学年下には千葉ロッテマリーンズに入団した早坂圭介
がいたので、強いはずですよね。

県大会決勝もコールドで勝ち、チーム初の全国制覇を期待されていましたが、全国大会は1回戦で敗退😢
私が最後のバッターでした・・・
1点差ツーアウトランナー2、3塁でヒットを打てば逆転サヨナラの場面で、見事な見逃し三振・・・

一番右が私でまだ笑顔ですが、この後、地獄を見ることに(-_-メ)

しかも失点した時にホームに投げればアウトなのに落ち着いて1塁に投げてしまいました・・・😢落ち着いていたので、その光景は鮮明に覚えています"(-""-)"

私の中学の野球人生はA級戦犯として幕を閉じました(笑)

中学時代はセンスに頼り全く努力することなく、人の邪魔ばかりをしたり、悪いことをたくさんしていたので、あだ名は「悪魔👿」でした。

周りも上手かったですが、私もそこそこ上手かったので、複数の高校からお誘いがありました。

しかし、お声かけいただいた高校は全て男子校(-_-;)

この頃には、自分の実力も分かり始めてきて、猛烈に「甲子園に行きたい!」というよりは、このまま野球辞めるのも何だし、レギュラーになれそうなところで、共学に進学しようと考え、先輩も通っていた「横浜商業(Y校)」に進学することにしました。
※商業高校は女子が男子の2倍いるという天国な学校です。

私が入学する前の年に、センバツ高校野球にも出場し、過去には春夏連続準優勝した高校です。

学力は不足していたのですが、全国大会に出ていたことなどが加味され、無事に推薦入学することができました。

この頃は高校野球の厳しさを全く知らない、呑気な健太君でした・・・

高校時代~横浜商業(Y校)~

高校1年生の時は「厳しい」の一言でした。
練習はもちろんのこと、それ以上に上下関係です。
当時は殴る蹴るが当たり前の時代です。
毎日のように「集会」と呼ばれる儀式があり、先輩からたくさんの厳しいご指導をいただきました(>_<)

この時に学んだのが、今も身についている処世術です。

いかに先輩に怒られないか、いかに先輩に好かれるか

野球が上手くなることではなく、厳しい説教を受けないためにはどうすれば良いのかをいつも考えていました。(野球が上手くなるはずもありません😓)

おかげで厳しい説教を受けることも少なく、野球が上手くなることもなく、あっという間に最上級生になりました。

最上級生になると先輩からも怒られないので、努力もせず、サボることばかり考えていましたが、持ち前のセンスだけで、試合に出ていました。
どれくらい舐めていたかというと、ランニングのショートカットは当たり前で、午後の試合でも学校の近くにあった家系ラーメンを腹いっぱいに食べ、「気持ち悪い」と言いながら試合に出ていたり・・・
本当に野球に真剣に向き合っていませんでした。みんなごめんなさい🙇

そんな態度なので、当たり前ですが、監督からも嫌われ、最後の夏には試合に出れなくなってしまいました😢

完全に自業自得で、私は人生で後悔というのはほとんどないのですが、高校時代に努力しなかったことは今でも後悔しています・・・

今のトライアスロンの練習姿勢が高校の時にあったら違った人生だったかも・・・

それでもベンチには入っていて、最後の大会はベスト8でその年の甲子園でベスト4まで行く横浜高校に敗れました。

横浜高校は前年も甲子園に出ており、その時のメンバーがほとんど残っているため、試合前から正直厳しいと感じていました。

私たちがベスト8進出を決めた後に、横浜高校もベスト8をかけた試合が行われていました。対戦相手を見ても、明らかに横浜高校が勝ち上がってきて、準々決勝では横浜高校との対戦が決定的でした。
ベンチは同じ1塁側だったので、私たちがロッカールームを引き上げた後に次の試合の横浜高校が入ってくるので、私はロッカールームの暖房を最強にしてロッカールームを後にしました。
「この暑い夏に、ロッカールームも暑ければ体力消耗して、横浜高校が負けるかもしれない・・・('ω')」
そんな訳の分からない作戦は通用することもなく、横浜高校はコールド勝ちで見事に対戦することが決まりました!

横浜高校との試合の前日も
「今頃練習してもしょうがない!勝負勘を養うことが重要だ!!」
といってトランプで大富豪に興じていました。

勝てるわけもありません・・・。

横浜高校には5対1で敗れて、私の野球人生は終わりました。

当時の私の高校のエースは山口鉄也

のちに育成選手として巨人に入り、大活躍します。

真面目な集合写真でふざけているのが私です

中学も高校もチームメイトに恵まれて、自分は本当に運の良い男だと思います。

野球で培ってきたことは今でも自分の礎になっています!!

完全な不完全燃焼でしたが、当時は野球に未練は全くなく、「これで遊べる!」と悔しい気持ちではなく、うれしい気持ちの方が大きかったです(;^_^A

なので、負けた当日に金髪にしてピアスをあけました。
分かりやすい単純人間(-_-メ)

ここから、理学療法士になるべく、受験が始まるのです・・・

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