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少し長い自己紹介~前編~

今回は池畑健太という人を知ってもらうために
ちょっと長い自己紹介を書きたいと思います!
ちょっとどころではなくなったので、
前編、後編に分けました( ´艸`)

興味ある人も、ない人も是非お付き合いください!!

生まれ

昭和58年(1983年)6月18日に鹿児島県奄美大島の
県立大島病院で産声をあげました

奄美大島ってあの奄美大島です!

奄美大島は父親の実家で母親は父親の実家にお産に帰って、
そこで私は誕生しました。
(普通は自分の実家でお産しますよね…笑)
父方の祖父が健雄(けんゆう)という名前だったので
そこから一文字もらって

「健太」

という名前になりました

ちなみに母親は屋久島の生まれで、
小さい時は1年おきに奄美大島、屋久島と
交互に帰省していました。
今となってはとても贅沢なことですね…(-_-メ)

お墓も奄美大島にあるのですが、
奄美大島の奥地の西古見というところで、

市街地から車で1時間半ほどかかります。

お墓の前はオーシャンビューです

生まれただけなのですが、
「奄美大島生まれです!」
というと興味を持ってもらえるので、
奄美で産んでくれた両親に感謝!!

夏休みなどの長期休みに帰省すると
おじいちゃんもおばあちゃんも
いつも喜んでくれました。

おじいちゃんは500円玉貯金をしていて、
私たち兄弟が帰るとその500円玉貯金から
いつも10枚抜いて
「好きなもの買っておいで!」
と言って、到着早々お小遣いがもらえるのが
楽しみで楽しみで仕方ありませんでした。

その500円玉貯金は
直径20cmくらいの黒い球体で
500円の投入口が切り取られ
その投入口の上に
「500円玉食べます」
と書いてありました。
なぜ食べるのか?
そこは未だに深い謎です。

500円玉10枚は兄弟それぞれがもらえるので
1人5000円!!

小学校入学前の私たちにとっては大きな金額です。

その500円玉10枚を握りしめて
商店街でおもちゃを買い、
帰り道にある商店でアイスとお菓子を買う

それが恒例でした。

おじいちゃんは鹿児島県の職員を定年まで勤め上げ、
おばあちゃんも保健師として鹿児島県の職員だったので、
年金がめちゃくちゃ多かったと大人になって聞きました。
しかも、おじいちゃんは軍人だったので、
軍人恩給というのも加わり、
二人の年金は働き盛りの父親の収入を
大きく超えていたとのことです。

昭和恐るべし"(-""-)"

おじいちゃんは満州で終戦を迎え、
そのままシベリアに抑留されました。

シベリア抑留から帰ってきて船の上から日本が見えた時が
人生で一番うれしかったと語っていたのを覚えています。

子どもながらに
「え!?孫が生まれた時じゃないんだー」
と思いましたが、大人になってシベリアの抑留生活を知り、
とても納得しました。

おばあちゃんも満州に保健師として行っており、
現地で足の指が凍傷になり、
足の指を全て切断してしまいました。
歩けてはいましたが、
そんな状態でも昭和の時代に定年まで勤め上げる
おばあちゃんを心底尊敬しています。

こんな二人の血を継いでいる私は思い出す度に
自分のことが誇らしくなりますし、
その血筋を汚さないようにしないといけないと感じます。

そんな二人に会うのがいつも楽しみでした。

そんな優しいおじいちゃんも飼っていた犬には厳しく、
烈火のごとく怒っていました。

その犬の名前はライオン🦁

犬にライオンと名前をつける意味も分かりませんし、
いつも残り物のご飯とみそ汁、肉を混ぜた
おじいちゃんの特製ごはんをいつも勢いよく食べていました。
今じゃ考えられないですよね💦

94歳で亡くなる年に私の長男次男であるひ孫との写真(^^)

長くなったので今日はここまで…

やばい…

まだ小学校にも上がっていない…

前編、後編では終わらないことが確定です( ´艸`)

次は人生を大きく変えた野球との出会い編です!!

お楽しみに!!



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