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【エッセイ】晩夏のスペクトラム/忘れ者の日記10

 左耳が聞こえなくなって——正確には聴こえが悪くなって——早いもので3週間が経とうとしている。まだ完全に症状が治まったわけではなく、良くなったり悪くなったりを繰り返しながら、振れ幅は少しずつ小さくなっている、ような気がする。
 医者に「初めてなのか」と聞かれたので、「今までにも心当たりはあるが、その時は寝たら治った。これほど長引いたことはなかったので、病院に来るのは初めて」と言ったら、医者は「また再発するかもしれない」と言った。頭の中ではずっと室外機が回っているし、人の声はゴボゴボと溺れたような感じで聞こえる。日によっては、立ちくらみやふらついて真っ直ぐ歩けないということもある。大学院の授業がなくてホントウに良かった。

 4つの季節の中で、夏がいちばん良い。飽きがこないから。特に上手くもない洒落を言っても許してもらえる、夏はそんな季節だ。
 思い返せば、4年前の夏、いわゆる「コロナ鬱」になっていたのかもしれない。医療従事者の母親と医療関係者の父親はわたしが外出することにものすごく厳しかった。わたしには当時から無意識的に感じていたことがある。コロナとは呼吸器系の症状を引き起こす感染症である以前に、すべての人間を「潜在的感染者」と見なし、行動制限と隔離によって、人と人が出会う場を奪うものであると。そういう風に考えると、当時のZoomやSkypeが担わされていたことというのは、みんながステイホームすることで奪われた場所を仮想的に回復することだったんだろう。
 公衆衛生のためのステイホーム、悪化する精神衛生。連日のZoom授業で気が狂いそうになっていたわたしは、5限目がない曜日に、最寄り駅まで散歩することにした。できるだけ気を確かに保ちながら、同時に感染リスク——この頃のワイドショーで散々聞かされた言葉だ——をできるだけ下げよう、ここが両親との落とし所だった。そんな対策も虚しく、多分わたしは鬱だった。

 家に籠っていると、季節が過ぎ去るのは一瞬だ。今年の夏もそうだ。今年の夏が最後かなと思っているうちに年が明けて、また夏が来る。繰り返される一瞬の夏、だけど同時に永遠の夏でもある。
 おそらく世の中の多くのことはグラデーションでできていて、何かと何かの中間領域をたゆたっている。何も決めないことが大切なんだ。闘いながら逃げること、脚本を書きながら上演しないこと、結果ではなく過程を見ること、自分のものでありながら自分のものではないこと、両性でありながら無性であること、思い出しながら忘れること、一瞬でありながら永遠であること、健康でありながら病気であること、正常でありながら異常であること、やめないこと、徹底的に迂回すること......。

 この日記もそろそろおしまいにしようかな。これ以上掘り返しても、同じ話題しか出てこないと思うんだ。でも、繰り返されるということは、そこには大事な何かがある。大事な何かの痕跡が繰り返しの中に繰り返し現れている。けれど、それはまったく同じではなく、まるでプリズムに光を通したように、それぞれで違う色を見せている。この日記は言わば、そのメランコリーのスペクトルだったのかもしれない。

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