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世俗的な言葉との付き合い方に悩む

友人や家族、恋人などの間だけでなく、職場の上司や同僚などとの付き合いで交わすたわいもない会話の最中ですが、果たしてどれほど言葉に対して意識を傾倒させられるのか、つねに挑戦し続けているのは、私だけではないと思います。

タイトルにもある「世俗的な言葉」とは、決して単語に限らず、少し思索すれば綻びるはずの根拠のない思想や偏見なども含んだ、いわば俗語、さらにはどこかで聞いたような文節を総称してわたしが勝手に名付けたものです。

たとえば単語でいえば「エモい」「陰キャ陽キャ」は有名な俗語ですね。
思想や偏見でいえば「高学歴だから頭がいい」とか「女だから〇〇」など、論理的に飛躍した文言は世界にありふれています。

私はこういった「世俗的な言葉」を安易には使いたくないですが、テンプレート化した言葉そのものが持つニュアンスや印象を、すでに周囲の人間が認識理解しているだろうという期待と安心感から、悔しくもそれらに頼ってしまう時があります。たしかに些細な会話のうちでは、内容の稚拙さや不確かさから生まれた偶然的な悦楽が優先されるとしたら、「世俗的な言葉」を使用することは合理的だとも言えるのは承知の上ですが、ここで「私から発せられる言葉は私の意思により生まれるものでありたい」という私のこだわりが、「世俗的な言葉」との付き合いの邪魔をするのです。

「オレ、陰キャだからさあ〜」
友達に自分のことを話す時に上のように話し始めることがありますが、事がすぎればいつも後悔しています。わたしは何を以て陰キャだといっているのか、陰キャという言葉で自分の特性に言い訳しているだけでないか。私から私への問いに答えられないのであれば、私から発せられた「オレ、陰キャだからさあ〜」という言葉に責任を持つ事ができない恐怖を感じ、自分の意思によって生まれた言葉であったはずなのに、もはや糞尿と同等の汚物にしか見えなくなってしまうのです。

言葉を安易に使うということ、特に俗語や根拠のない偏見を平気で発する事が、己の人間としての価値を下げるような気がします。
ん?人間の価値って?
また使ってしまいました。人間の価値について語れる見識がまだまだ足りないにも関わらず、、、
ここはきちんと私の言葉で表現しましょう。安易な言葉の使い方をする、いわば他人への伝わりやすさばかりを優先した言葉の使い方ばかりすると、他人に意識が向きすぎるあまり、自身の「個性」を言葉から感じられなくなってしまうのではないかと、私は危惧しているのです。

言葉は個性だと、私は考えています。いやむしろ、使う言葉によって個性が現れるといった方がより正しいでしょうか。
人間は言葉を紡ぎながら思考をします。思考は言葉を持たない赤ちゃんでもできますが、成長するにつれて言葉を獲得してその思考はますます個体によって特性が出てくる、これが個性です。
背理法によって、使う言葉によって個性が現れることがない、と仮定して考えてみても、個性が先天的な遺伝子によってしか決まらなくなるという非現実的な結論にしかいたらなくなるので、やはり言葉は個性だと考えるのが妥当だと思います。先ほど人間の価値という言葉をもちいてしまったのは、私が人間の価値は個性そのものに見出されるのではないかという問題意識からでしょう。

「オレ陰キャだからさあ」の言葉になんの個性があるでしょうか。私自身が私について理解しようと努める態度は見受けられるでしょうか。否。
ただでさえ言葉というのは所詮は人工物であり、「私」や「人間」という自然物を完全には形容できるはずがありません。にもかかわらず「陰キャ・陽キャ」というたった二つのカテゴリーを人工的に設けて、自然物である人間の私を陰キャというカテゴリーに勝手におさめ、あたかも正しいことであるかのように「オレ陰キャだからさあ〜」と話すなんて、なんと傲慢な態度でしょうか。

このように、安易な言葉選びをしてしまうのは、思索が足りないために私の意思が介入せず、世俗的な言葉に頼ってしまわざるを得なくなるというメカニズムによって生まれるのではないかと、結論づきました。

わたしが世俗的な言葉遣いをやめるには、私が言葉をまなび、常日頃から自身の言葉遣いに細心の注意をはらうことが大事ということですね。

言葉をまなぶ? 本でも読むか。。
どんな本を読めばいいんだろうなあ。。

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