応神天皇の皇子 菟道稚郎子(ウジノワキイラツコ)の皇子の墓は高松市の鶴尾神社裏山に和邇氏が造った双方中円墳ではないか?
◼️応神天皇の死後、皇子であった菟道稚郎子(ウジノワキイラツコ)は、宇治大君として現在の京都府宇治市の宮にいた。
現在、その場所には宇治上神社と宇治神社が建っており、ウジノワキイラツコを祭神として祀っている。
🔸宇治上神社
🔸宇治神社
当時、応神天皇からウジノワキイラツコへの継承をよく思わない勢力がいた。
神功皇后とニ韓征服(新羅、百済)を行なった襲津彦の一族たちだった。
その勢力は、宇治の宮を襲撃し、ウジノワキイラツコを宇治川で遭難させてしまう。
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🔸宇治事件の詳細と仁徳天皇の正体
◼️出雲口伝が明かす応神天皇と仁徳天皇の正体とは? 高松市庵治町の皇子神社 船祭りの”だんじり”の意味と祭神ウジノワキイラツコ (応神天皇の皇子)の政権交代の秘密とは?
当時、ヤマトの皇子村 (現天理市庵治町)には、ウジノワキイラツコの皇子と親族たちが住んでいた。
宇治川での事件のことを聞き、葛城一族に殺されると思った皇子と親族たちは、すぐにヤマト川を下って逃げることに決めた。
瀬戸内海を渡って、讃岐国の屋島の東側の岬に身を潜めた。
4世紀末の出来事だから、今から1600年前のこととなる。
彼らは、そこに皇子神社を建て、ウジノワキイラツコを祀った。
ヤマトに残ったものたちは、皇子村の字を変え、庵治(おうじ)村とし、讃岐に来たものたちは、この地を庵治(あじ)と呼んだ。
皇子神社では、ウジノワキイラツコの宇治川で起こった悲劇を忘れぬ為、毎年、船祭りのだんじりで祭神が味わった恐怖を再現する。
この光景は見ていても少年たちが感じている恐怖とウジノワキイラツコが味わった恐怖を思うと涙が出てくる。
現在では、この本来の意味が語られることはない。
この高松市庵治町にある皇子神社から17Kmほど離れた高松市西春日町に鶴尾神社がある。
この鶴尾神社もウジノワキイラツコを祀っている。
ウジノワキイラツコを祀った神社は全国でも非常に少ない。
もしかすると、この鶴尾神社辺りにもウジノワキイラツコの皇子と親族の人たちが住んだのかもしれない。
実は、この鶴尾神社の裏山一帯は、石清尾山古墳群となっており、古墳が200基もある。
中には全国でも珍しい双方中円墳の鏡塚古墳や猫塚古墳がある。奈良県の櫛山古墳も双方中円墳だ。
🔸🔸🔸ウジノワキイラツコの皇子と親族が住んでいた天理市庵治町と天理市柳本町にある櫛山古墳(双方中円墳)
高松市の石清尾山古墳群にある双方中円墳は天理市から移住して来た和邇氏が造ったのではないか?
ウジノワキイラツコの皇子の墓は鶴尾神社裏に和邇氏が造った双方中円墳だろう。 古墳の築造年代はズレがあるもの。櫛山古墳、猫塚古墳、鏡塚古墳は4世紀に造られた。応神天皇が亡くなったのは4世紀。
ウジノワキイラツコの母は和邇氏で、天理市を拠点に居住していた。和邇氏の柿本人麿は、ウジノワキイラツコの悲劇を知っており、幾つかの歌を残している。
🔸鶴尾神社裏山にある双方中円墳の鏡塚古墳、猫塚古墳
🔸高松市庵治町の皇子神社。小豆島にも皇子神社があるが、祭神は不明。
🔸高松市庵治町にある皇子神社
🔸高松市西春日町にある鶴尾神社
祭神は、神功皇后、応神天皇、ウジノワキイラツコ
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詳細記事
🔸【参考資料】出雲口伝『仁徳天皇や若タケル大君』
『出雲王国とヤマト政権』の続き。物部王朝成立から雄略大君までの歴史。
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