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【二十四節気短編・啓蟄】 誕生日のクラッシック

1 麗香と優成


 三月初旬のある日の事。その日は春のように温かく、二、三十年前から世界中で口々に言われている温暖化が影響していると思われる。
 そんな日を、ジーンズに長袖シャツ一枚で過ごしている優成ゆうせいは、異常気象だろうと温暖化だろうと、大して気にも留めなかった。それ程までに気候の変化など彼にはどうでもいいのである。

 優成は今、自宅から道路を挟んで隣、日本家屋の和室にいる。
 そこに住む高梨たかなし麗香れいかが書初めをしようと硯に墨を磨っており、優成は隣で寝転がって眺めていた。

 麗香は、優成が五歳の頃に高梨家へ引っ越してきた。その時から二人は姉と弟のような関係である。
 血の繋がりから見ても、麗香の祖父・葉造ようぞうの弟の曾孫ひまごが優成であり、二人は親戚関係だ。
 歳は麗香が六歳も上であり、実の姉弟であっても申し分ない。よって、二人が姉弟のように互いを認め合うのは時間が要らなかった。

 姉弟であるから喧嘩も当然ある筈だが、歳が六つも離れているからか、喧嘩らしい事をした記憶は優成にはない。あるのは、自分が我儘を言って麗香になだめられる記憶ばかりである。
 今年の四月で高校三年生、親に対しては反抗期を迎えている優成は、麗香には粗悪な態度を見せない。
 反抗期の気性を抑えるのは、容姿端麗な美人であり、姿勢よく、礼儀正しく、柔和な表情であり優しく、運動神経も良くて気遣いも出来る。まるで高嶺の花を題材とした漫画のヒロインの様な印象がそうさせているのかもしれない。
 どうすればこのような女性が出来るのかとも思われるが、このあらゆる面において優秀な麗香も、その生い立ちと立場がその人間性を作り上げたのかもしれない。

2 引っ越しまでの経緯


 麗香の祖父、高梨葉造には息子二人、娘一人がいる。
 長男・吉広よしひろが麗香の父である。
 吉広は極々普通の男性であった。
 仕事は他の者より群を抜いて目立つほど出来る訳ではないが、まるで出来ない訳でもない。
 女性にだらしない訳ではなく、金遣いが荒い訳でもない。むしろ浪費する物が特に無く、お金の管理は妻に任せっきりである。

 吉広に対し、妻の宏佳ひろかは浪費癖が激しかった。特に食への執着心が強く、珍しい食材やテレビ番組で良いと言われた食材は必ず購入する。
 それは通信販売においても行われ、高梨家には押し入れの半分を埋め尽くす程積まれたペットボトルの水や、冷蔵庫内の食材はなかなか減らない。
 また、次から次へと食材が入る為、物を腐らせて廃棄する事は日常茶飯事であった。
 昨今、廃棄食材を減らそうという世界的テーマとは程遠い飽食生活を維持し続けている。

 宏佳の食材過剰購入癖は、吉広と幼い麗香がどれだけ指摘しても治らない。少しでも指摘しようものなら口答えして対抗し、すぐに拗ねてしまい、家の空気は重くなる。これだけならまだいいものだが、吉広は浪費する事はあまり無いが、酒だけは唯一の楽しみであり、毎晩缶酎ハイを三本は空けている。
 吉広は酒に酔うと感情的になりやすい性格であり、暴力を振るう訳ではないが、常日頃溜まった鬱憤の片鱗に触れようものなら、瞬く間に怒号が飛び交う。その怒号の対象となるのは、当然宏佳の過剰購入に対してである。

 麗香は幼い頃より両親の口喧嘩に嫌気を指し続けており、喧嘩が始まるや否や、別の部屋に逃げ込み、誕生日プレゼントに吉広から買ってもらった大きくてコミカルな恐竜のぬいぐるみを抱いてやり過ごした。
 吉広はいくら酒に酔っても麗香へ怒鳴った事も暴力を振るった事もない。それは、怒りの矛先を向ける対象がどうしても宏佳へ向いてしまうのもあるが、麗香は父親の怒号が自分に向けられる事を怖れ、出来る限り怒られない生活を過ごしてきた。

 麗香が九歳の頃、とうとう両親が離婚してしまい、麗香の親権は吉広が預かる事となった。元々、浪費癖を子供ながらに指摘する麗香をも疎ましいと思っていた宏佳が、親権を易々と手放したのである。
 吉広の酒癖の悪さから解放され、たんまりと慰謝料を手に入れた宏佳の浪費癖はさらに進化を遂げ、男遊びに身を乗りだす始末となった。

 吉弘との生活を送り始めた麗香であったが、両親が離婚して一年半後、吉広は突然胸が苦しくなって倒れ、そのまま帰らぬ人となってしまった。原因となったのは、離婚してからさらに増えた酒と、栄養の偏った食生活である。
 宏佳と生活していた頃もかなり栄養は偏っていたが、離婚してさらに悪くなった事が拍車をかけたと思われる。
 父を失い、親権は母親である宏佳へ渡ると思われ、麗香は嫌な思いであった。しかし、運命とは数奇なもので、吉弘が亡くなる十日前に宏佳は亡くなっていた。
 死因は崖からの転落であった。
 理由は、”男に貢いだ挙句に騙されて大金をせしめられ、苦難の末の転落死”とあるが、自らの過ちを認めず、喧嘩を売られようものなら激しく対抗する宏佳の性格を考えると、そう易々と自殺などしないだろうと麗香は思っていた。
 何かまだ事件性があるのではと思えてしまうが、離婚後の宏佳の生活を知ろうという気がまるで起きず、麗香の中で母は、”男で痛い目を見て自殺した哀れな女”。として片付けられた。
 衝撃的ではあったが、一切の悲哀の感情が稚気として湧かなかった。

 両親の離婚、そして共に死を迎え、精神面の負担、複雑な心境の麗香は、そんな最中十一歳となった。
 親権を預かったのは、本家に住む、吉弘の弟・弘幸ひろゆき夫妻であった。
 二人には子供がおらず、麗香は実の娘のように迎え入れられた。しかし、本家へ引っ越した麗香に笑顔はなく、どこか冷めた印象の人相であった。
 数々の苦難を幼いながらに経験し続けた麗香を思う葉造は、このような困難にも負けず、宏佳のようなだらしのない女性にさせないため、教育に意気込んだ。
 さらに麗香の祖母・よしゑは、茶華道・書道の指導者を経験している事から、その手の習い事も始めさせた。

 同時期、五歳の優成が麗香になついた事もあり、人相を無表情で固めてしまった複雑な心境も解されてか、穏やかな表情へと変わりつつ、姉としての責任感まで芽生えた次第であった。
 高梨家の住民が、それぞれに各々なりの愛情をもって麗香と接し育てて来た為に、今の麗香へと至ったのである。

 優成は、そんな麗香の生い立ちを詳しく知らず、誰に聞いても色々あったと聞かされている。麗香本人には聞きづらく、今尚何も知らない状態であり、”どうやればこんな完璧な女性に仕上がるのか?”と、謎のままである。

3 突然の報告


 麗香は書初めの準備を終え、半紙を眺めていた。
 けして、よしゑに文字を書けと言われたわけでも習慣でもない。ただ、急に書きたい衝動が準備をさせた。
 優成は起き上がって胡坐をかき、何を考えているのか疑問に思っていた。

「姉ちゃん、何考えてんの?」
 優成は麗香と初めて遊んだときから姉ちゃんと呼ぶ。
「ん? ……何書こうかなぁ……って」
 ここまでは思い付きで動いた為、本当に何を書こうか決めていない。
「季節的に“春”でいいんじゃねぇの?」
「小学生の宿題じゃないんだから」

 今、麗香の心中は穏やかでないのを優成は知っている。そして、優成も寂しい思いであった。
 麗香も二十三歳を迎え、結婚を前提にした付き合いをしてほしいという相手と巡り合えた。
 その男性と付き合い、呑気な所、だらしない所、それでいて優しい所と見ていくと、麗香はいよいよ男性へ好意を抱くようになった。もう、結婚も早いだろうと思われる。

 この感情の向くままに結婚すればいいのか、
 両親の例もあり、もう少し様子を見たほうが良いのか、
 それともこのままの関係を続ければいいのか。

 悩みが多く、頭が変になってしまいそうな麗香が至った行動が書道であった。

「じゃあ、俺のリクエストとかいい?」
「変な字とかは嫌よ」
「大丈夫だって。超いい感じの字だから。んとねぇ……二十四節気」
 一文字か二文字に収めよとしていた麗香は、五文字という所に悩ましくあった。
「どうして二十四節気?」
「こないだ見たラノベのアニメでさぁ、敵が二十四節気に関する技使ってんの見てカッコいいってなってさぁ」
 完全なるアニメの影響から出た文字である事から、麗香は溜息が漏れた。自分の悩みはアニメでどうにかなるのだろうかと思われていると、吐く息に深みが増す。

「……あ、でも……」
 不意に思い至り、ついつい呟き声が漏れた。
 浮かんだ文字は、時期が合い、優成のリクエストにも関係する文字であった。
 言葉の意味を思い出すと、麗香の手は迷いなく動いた。
 書き出された文字は画数が多く、難しい漢字であるのは一文字目を書き終えた時に優成は思った。それは何となく読める字であったが、二文字目は本格的に何を書いているかが分からない。なにより、二文字とも画数が多いのに、どうして半紙に収めるように書けるかが、優成には疑問でしかなかった。

「けい……何?」
「“啓蟄けいちつ”二十四節気の三番目の文字で、丁度今頃の文字よ」
「なんか意味とかあんの?」
「土に入って冬ごもりしていた虫たちが地上に這い出るって意味よ」
「なんでその字なの? 春分とかでも良かったんじゃないの?」
「なんか……いつまでも籠ってちゃ駄目だなって。思い切って出る時は出ようかなぁって」
 麗香の心情を優成には分からない。ただ、何かを決断して、いよいよ遠くへ行ってしまうのだという、漠然とした別れの感覚でしかなかった。

 やがて、優成は麗香と会う機会がさらに減り、十月二日、久しぶりに会った麗香から、結婚すると聞かされた。
 優成が十八歳となった日である。

4 別れの誕生日


 十月二日、午後十一時。
 優成は電気を消した部屋でベッドへ寝転がり、呆然と天井を眺めていた。昼寝もしていないのに、どういう訳かまるで眠気がこない。
 タブレット端末を起動し、無料動画でドビュッシー作『月の光』の睡眠用音楽を流した。
 ドビュッシーという作曲家を優成は知らず、学校の授業で教わっているが既に記憶にはない。ただ、『月の光』という曲だけは覚えている。それも、麗香が教えてくれたからであった。
 今、優成の部屋には薄明りが天井を照らしている。勿論、タブレット端末の明暗調整を最低まで抑えた光である。
 暗い部屋では、明暗調整を最低まで落としてもそこそこの明るさを発する。その微弱な明るさが今の優成には丁度良く、昔に事を思い出せた。


「ドビュッシー?」
 小学二年の頃、夏休み最後の週を迎えた月曜日。優成は高梨家へ一泊二日で泊った。麗香に宿題を手伝ってもらう名目である。
 その日の夜、麗香の部屋に並んで布団を敷いてもらった優成は、部屋の電気を消し、音量を抑えたCDデッキから流れるクラッシックが何かを麗香に訊いたのであった。
「『月の光』っていう有名な曲。良い曲でしょ」
 優成はあどけない笑顔で頷いた。この歳の優成は、麗香が好むものを同じように好む子供であった。
 麗香は、布団から寝転がりながら手の届く所に置いていた、電源を入れると光る球体の置物を持ってきた。
「この色合いとか、光り具合とか、この曲に合うやつ」
「何、それ?」
 麗香がスイッチを入れると、薄っすらと青い光に仄かに白い光が混ざり、水面が揺らめいているような光が球体に灯った。
「優成ほら、天井見て」

 言われるがままに天井を眺めると、薄っすらと丁度良い加減の揺らめく光が天井一面に広がった。
 光の揺らめきを眺め、まるで映画である、洞窟内で仄かに何かが光る場面のような、神秘的な空間に自分はいるのだと思い込んだ優成の興味を引くのは当然であった。
 クラッシックの音楽に耳を傾けていた小学二年生の優成は、心地よい微弱な光の揺らめきが眠気を引き起こし、加えて昼間の疲れも合わさり、次第に瞼が閉じ、何時しか寝入っていた。


 十八歳となった優成は、もう、あの時のように『月の光』を聞きながら寝落ちする事は無くなった。ただ、今日は『月の光』を聞きながら、淡い光に照らされた天井を見たい衝動であった。
 あの時の光る置物ではないが、一つの機械で曲と丁度良い加減の光を発せるのだからいい時代になったと、普段は思いもしないが今日だけは特別にしみじみと思う。

 高梨麗香が二十四歳になって結婚する。

 別に不自然な話ではない。世の中には高校卒業後すぐに結婚し、二十歳になる前に子供を産む女性だっている。それに比べれば、麗香の結婚は年齢的にもよくある部類だ。ドラマやアニメでも幅広く二十代の結婚は多い。
 優成の心の何か燻る想いは、麗香が本当に遠くへ行ってしまう事に対する切ないものであった。
 麗香は容姿端麗で優しく、何事もそつなく熟せる女性だ。優成もそんな素敵な女性を姉のように慕い、今でも好きである。

 そんな麗香が嫁いでしまった。

 もう数年以内には当然のように子供が産まれ、優成にも子供を見せてくれるかもしれない。そして、優成も赤子を愛おしく思うのかもしれない。
 妄想でしかない淡く尊い幸せの光景だ。
 優成は麗香に祝いの言葉をたどたどしく伝えた。けど、内心ではまだ優成の姉として高梨家に居てほしい思いが強い。
 頭の中で想いが混在する中、ふと優成は気付き、呆然と天井を眺めた。

 高梨麗香が、優成にとっての初恋相手であった。
 そう思うと、胸が少し苦しくなった。

 十月二日、優成十八歳の誕生日。
 その日聴く『月の光』は、どこか哀愁を漂わせる音色に思えた。

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