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仙臺古談

其の参繪 : 『 大橋擬宝珠流失せし疑問 』の事。

仙臺開府以来、藩公記録に廣瀬川洪水の記録を見るは元和三年卯月二十四日を初めとして実に藩政期のみで十六回を数えます。

また明治 • 大正十三年まで四回の記録もあります。

大正十三年、河原町桃源院脇の畑で発見された大橋擬宝珠は仙臺城と同時期に架設された創建当時のものとされ、慶長六年のその刻印から初めての洪水の時期に流失されたものとされています。

現在は仙台市博物館の所蔵となっていますが、しかし、それが発見まで二十回の洪水があったにしても廣瀬川の大きく入り組んだ蛇行した流れを縫って何キロも離れた河原町まで行き着くかと言えば疑問であり、また霊屋 • 穴蔵神社の由来碑がその真下、評定河原橋下の河原より流されずに昭和八年に出土した事に、例え大きさや流失年こそ違え擬宝珠が流失しても霊屋橋下 • 源兵衛淵を出ないだろうと、河原町桃源院脇の畑で発見されたのは誰かが大橋近くで発見して持ち去ったものを埋めておいたものであると勝手な持論を立てて最近まで評定河原近くで川底ざらいをしていた老人の姿を今でも思い浮かべます。

この話を聞いてから何十年が経ち、今だに記事にならないところをみると結局のところ見つからなかったのかとも思われます。

しかし、これを聞いた私の歴史好きの友人もその意見には満更でもない様子で、近くその意志を継いで川底ざらいでもやってみようかと言っており、その時には手伝ってくれとも頼まれてもいます。

まあ、自分にとってはこれだけの話で友人をその気にさせてしまった迷惑な伝承ではあります。


                                                                      ー 続く。

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