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教室から消えた沖縄の歴史・仲原善忠原著『琉球の歴史』(上・下)を読む~第15章 明治維新

【解説】
 この章も、第13章同様、日本史の教科書の明治維新の個所をまとめたものだ。しかも、一気に戦国時代から明治維新の入口までをまとめている。史料として提示されたキリシタン大名の印章も意図がわからない。沖縄とのかかわりもほとんどない。
 ここもは、後日まとめる際にはほぼ割愛することになると思うので、原文だけを提示しておく。繰り返すが、このプロジェクトでは、郷土史としての沖縄史に焦点を当てたいからだ。

【原文】
第十五章 明治維新と沖繩
一、旧日本と新日本 
 戦前の日本は、およそ八十年前(一八六七)に、ふるい日本の中から生れた新らしい(ママ)国家です。
     ふるい日本、すなわち、封建時代の日本は江戸の幕府が中央政府
    で、その主人は代々徳川氏の将軍です。全国には二百七十余の藩が
    あり、藩主はおなじく武士で、これらの各藩は半独立国のような性
    質をもっていました。将軍も藩主もそれぞれ、多くの武士をかかえ
    ていて、これらの武士が政治をしていました。
     琉球国は、各藩とは、いささか性質がちがい、薩摩藩の支配をう
    ける半独立国でした。
 やがて明治維新となり、このような組織をうちこわし、将軍を廃し、天皇を中心とする政府をつくり、藩を廃して、府、県として、これには知事をおいて仕事をさせるという組織にかわりました。
 沖繩も他府県より少しおくれて、藩を廃し県となし、新日本の一地方としてすすんできました。
     地方は一道(北海道)三府(東京、大阪、京都)四十三県、その
    後、台湾、朝鮮、樺太、南洋群島、関東州も日本の領土となってい
    ました。
 封建制度の古い日本から、新日本にかわったことは、日本の歴史の上でも、まれに見る大変動で、これを明治維新、又は「御一新」といいます。
 どうして、このような大変動がおこったか、又おこらなければならなかったか。
一言でいえば、この制度は、もはや時代おくれで、このような制度は、日本民族の進歩をさまたげ、日本の独立を守っていくことさえ、あぶなくなったからです。
 農工商の各事業をさかんにし、欧米各国と肩をならべて行くには、士、農、工、商の区別を廃し、国民全部が、その能力におうじて、自由に活動するためには、このような制度は改めなければならなくなったからです。
二、平民の成長
 封建政治は土地の産物、すなわち農産物(米)を租税として取りたて、武士は、それによって生活する制度です。商工業にはおもきをおかず、彼等からは税もほとんど取りませんでした。
 それゆえ、社会階級も、士農工商のじゅんで、商人は一ばん下になっていました。農は国の本として、士のつぎにおき、商売はいやしい職業とかんがえていました。
 ところが、平和の時代がながくつづき、商工業がさかえて商人は経済がゆたかになり、ぎゃくに武士と農民の生活はくるしくなってきました。
     各藩の財政は不足がちで、下級の武士は、ほとんど生活が出来な
    くなり、内職をして生活をささえている者が多くなってきました。
     各藩主は、江戸にも邸宅をかまえ、一年おきに多くの部下をつ
    れ、行列をして領地と往復し、その費用もたいへんなものでした。
     江戸は、ぜいたくな都会ですから、そこでの費用も多くかかり、
    武士の俸給をへらしたり、農民の租税をおもくしたりして、やっと
    まにあわせています。
 これと反対に、江戸、大阪の大都市をはじめ、各地には中、小の都市ができ、商工業はさかんになり、江戸、大阪を中心として、大小の富豪が多くでき、大名(藩主)の中にも、かれらから借金をする者が多くなってきて、平民の金の力に武士はだんだんおさえられて行きました。
 薩摩藩も一時は、数人の大阪商人から、ばくだいな借金をしてくるしんでいました。
 このように平和がつづき、商工業者がゆたかに成長してくると、それにおうじて文学、演劇、絵画、学問あらゆる方面に、町人の進出がめざましくなってきます。
 徳川時代の文化は武士の文化ではなく、町人の文化といわれるのも、そのためです。
 幕府も各藩もこんなんを切りぬけるため、いろいろの方法で改革をこころみます。身分の制度をゆるめて、有能な者を引きあげて活動させるとか、士族を職業につかせるとか、あるいは物産の専売をやって利益をあげるとか、いろいろの方法をとりました。
 薩摩は有能な者をあげて、財政をたてなおし、大高・沖繩の砂糖専売を強化して利益をあげ、有能な下級武士をひきあげて重要な位置につかせるなど、他藩にさきんじて改革を行いました。
 佐賀藩、長州藩(山口)なども、財政をせいりし、下級武士が勢力をしめました。これらの諸藩は、軍隊もいち早く、西洋式にあらためています。
薩摩藩が大阪市場で売った産物の九四パーセントは大島・沖繩の砂糖、うこん(染料)で毎年少なくも十万両ずつの純利をあげたといわれます。大島産と沖繩産は、四対一のわりあいです。
三、幕府をたおす運動
 徳川時代には日本歴史の研究がだんだんさかんになり、皇室にたいする同情が深くなり、尊王論が、さかんになります。それは、又、幕府にたいする反感とむすびつくようになります。
 欧米各国が、開国を要求するや、攘夷論もさかんになり、幕府が開国にかたむくころから、尊王論と攘夷論はむすびつき、皇室のある京都を中心として、尊王攘夷論がさかんになり、全国的に幕府反対の気勢をあふり(ママ)立てました。
     尊王攘夷をとなえるものは、幕府ににくまれ、捕えられれば死刑
    になるおそれがあるから、この運動はまったく命がけです。各藩で
    も、藩主と反対の行動をとれば、切腹か、ころされるかですが、武
    士だけでなく、浪人、神官、僧侶、学者、商人、農民いろいろの人
    がこの運動に入ってきました。これらの有志は京都を中心に、東西
    をかけめぐり同志のれんらくにあたり、しだいに幕府をたおす空気
    をもりあげてきました。
 一八五八年からあと数年は、藤、長、土、肥四藩の活動はますます、さかんになり、一種の内乱状態となります。
 一八六六年には、大阪、兵庫を中心として、とつぜん「打ちこわし」という、貧民の暴動がおこり、さらに関東にまで、ひろがりました。
 又江戸近くの農村に「百姓一揆」がおこり、幕府は大砲までもち出し、これを追いちらしたが、「百姓一揆」はここばかりでなく、東北から九州まで、数十ヵ所でおこっています。
 「打ちこわし」は、米価高にたいする都会の人民の反抗運動で、集団をつくって米屋から米をうばい、さらに酒屋とか質屋などをおそう集団的の暴動です。大阪や、江戸の米穀商などが大、的に米を買占めて、米価をつりあげたり、あるいは、凶作のために米価がたかくなり、困った人、が多くなった時に時、おこっています。
     百姓一揆は、重税にこまった農民が、租税の減免、その他の願を
    するため集団的行動をすることで、時には暴動となることがありま
    す。「打ちこわし」「百姓一揆」はこれまでも、部分的には時々あ
    ったが、こんなに大きく、全国的におこったことは、はじめてで、
    封建政治にたいする人民の反抗とも見られ、全国的に不安の状態と
    なりました。
 ところが、まもなく将軍は大阪で急死し、天皇も急におなくなりになり、徳川慶喜(けいき(ママ))が将軍となり、明治天皇が即位せられました。
四、明治維新
 慶喜は、もはや、募府のいきおいをもりかえすことが出来ないことをさとり、翌年、将軍職をやめたいとねがいでました。
 天皇は、将軍を廃し、御自身で政治をおこなうことを声明せられ、新政府の組織と政治の方針を発表なさいました。
     翌年(明治元年)慶喜は、薩摩兵を討伐するため、大阪から京都
    に攻めのぼったが、大敗北となり、大阪から、舟にのって、江戸に
    にげかえりました。
 新政府は、これさいわいとよろこび、討伐軍を三方面(東海道、東山道、北陸道)からくり出し、各地の反政府軍を討伐し、江戸(東京)をかこみました。しかし、慶喜は降伏し、官軍は江戸城をせっしゅうし、なお各地の反乱軍をたいらげ、江戸を東京とあらため、政府をここにうつしました。
 新政府は「開国進取」の方針をとり、つぎつぎと、旧制度をあらためていきます。
     開国は、幕府がすでにむすんだ条約をうけつぎ各国との交通貿易
    を行うことで、進取は進歩的な政治をするという意味です。
    政府の中心は、三条実美、岩倉具視(二人とも京都で、皇室につか
    えていた人で、公卿(くげ(ママ)といわれる。)大久保利通、西
    郷隆盛(薩摩の藩士)木戸孝允(長門の藩士)板垣退助(土佐藩
    士)大隈重信(佐賀藩士)等です。その中で木戸、大久保、西郷の
    はたらきがめざましかったので維新の三傑といわれています。
     その外にも、いろいろの官庁、役所の大小の役人、陸海軍、人な
    ど、多くはこれらの人、の同志です。

04-1大久保利通

大久保利通

04-2木戸孝允

木戸孝允

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西郷隆盛


 政府は明治四年にすべての藩を廃し県をおき(廃藩置県)、旧藩主はすべて、東京に引きあげさせ、あらたに知事を任命し、政府の命令によって、いろいろの改革を実行させました。
 さて明治四年までに、政府も、各県知事も新進の人ばかりとなり、「御一新」の空気がみなぎってきました。
 沖繩、すなわち琉球国にたいし、新政府はどのような態度をとったか、首里政庁は新政府をどのようにむかえたか、きょうみ深い問題です。
【問題】
 一、平和時代がつづくと、どうして商人がゆたかになりますか。
 二、幕府はなぜ尊王攘夷論をあっぱくしましたか。
 三、廃藩置県は、どんな利益がありますか。
 四、明治維新はどうして行われたのでしょうか。そのわけをいいなさい。
 五、徳川時代の文化を町人の文化というのは、なぜでしょうか。

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