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教室から消えた沖縄の歴史・仲原善忠原著『琉球の歴史』(上・下)を読む~第7章 王国の政治④

三、王国政府の統治と農民支配のしくみ

【解説】
 全体的に分かりにくい記述である。筆者自身に知識がないので、仲原の記述を整理して記載したのだが、正しいかどうか不安が残る。
 薩摩の支配についての記述が出てきて、例によって勇み足なのだが、後半部分での言及がどの程度なのかまだ把握できていないので、一応残しておくことにした。後日整理するかもしれない。
 琉球王国時代の過酷な農民支配について、冷静な筆致ながら仲原は訴えている。これが、沖教祖にとって都合が悪いことなのだ。王国時代を美化することで、日本の領土になったことを貶める歴史観を押し付けてきたことがばれてしまうからだ。華やかな王朝絵巻は王家とその取り巻きだけで、下級士族や農民は苦しい生活を強いられ、農民は事実上奴隷状態だったことをはっきりと県民が知ることは重要なことだ。明治政府が解放者だということを言いたいのではない。奴隷状態であったという事実に目を向ける、歴史を直視することが必要だということなのだ。

【本文】
 琉球王国の政治の仕組みを見ていきましょう。
 中央は、王の下には3人の三司官(世あすたべ)を置きました。尚寧王から後には、王族から三司官の上に摂政がひとり任ぜられるようになりました。三司官の下には役所の長官として奉行おり、役人を使って仕事をさせました。
 地方は、少し複雑です。有力な按司が首里に住まわされたのはすでに書いた通りです。中小の按司はまだ元の地に留まっていました。領地は削られて、その頃は一間切ぐらいになっていました。一方で地方は、王以下の士族の領地になりました。領地をもつ人を地頭と言います。2人で1間切を領する惣地頭と1字(シマと言いました)を領する脇地頭とにわかれます。農民から見ると、3人の領主がいることになります。薩摩の支配がはじまった頃、地頭は370家あり、その内惣地頭79家、脇地頭家292家ありました。地頭は首里にいながら、領地からの収入を得ていました。多い者で150石ほど、少い者でも2、30石の収入があり、その他にも利益がありました。
 それ以外の士族は平士といい、役所や地頭に仕えて俸給をもらっていました。平士は人口の増加により、経済的に困窮していきました。
 宮古、八重山は、按司や地頭はおらず、在番という役人だけがいました。奄美大島についてははっきりしません。
 各間切には番所があり、尚真から尚寧のはじめごろまでは、按司掟という役人が首里から来ていましたが、17世紀に薩摩藩の支配を受けるようになってからは廃止され、住民の中から地頭代(宮古、八重山は地元の士族の中から頭)を選び、各間切の仕事をさせました。地頭代になる人はある程度の学問があり、多くは私有地をもつ富農でした。奄美大島では大親が間切の一番上の役人でした。先島諸島と久米島には首里から在番が、後になると各間切に検者がひとりずつ派遣されました。また納税成績のわるい間切には、更に下知(げち)役がひとりずつ行きました。
 農地は、地頭、ノロ、間切役人が耕作の権利をもつ役地と、私有地、公有地の3つにわかれます。公有地が全休の7~80%を占め、これを各戸の耕作能力に応じて割り当て、耕作させました。収穫の約半分は租税として差し出します。租税は各戸にかかるのでなく、各間切にまとめて課税されたものが各戸に割り当てられました。その他に、年に1~2日ほど地頭のために働く義務があり、農民の負担は非常に大きいものでした。
 宮古、八重山にはさらに、人頭税といって、一人一人に税がかかるので、病気の人や貧しい人は生活に支障をきたすほどでした。
 時代によって島民の生活は変わっていきましたが、大体において、明治時代になるまでの琉球では、貧富の差がだんだん大きくなり、大多数の者は生活が苦しくなっていきました。

【問題】
1.尚真王の政治を、良かったことと悪かったことにわけてまとめてみましょう。
2.どうして、同じ国のはずなのに、離島の制度は違っていたのでしょう。理由を考えてみましょう。
3.沖縄に残っている王国時代の風習を良いと思うものと、なくす方が良いと思うものに分けて考えてみましょう。

【原文】
 三、政府の組織 
一ばん上に王、その次に三人の三司官(世あすたべ)がいました。(尚寧王からあとは王族から摂政が一人任ぜられ三司官の上になる)その下に多くの奉行がおり、各役所の長官となり官吏をさしずして事務をとります。
地方はどのように治めたか。
各地の按司の領地が、そのころは一間切ぐらいになっていますが、地方の按司は引きあげていませんから、地方は王以下の貴族の領地になります。領地をもつ人を地頭といゝます。二人でいっしょに一間切を領する惣地頭と一村(一字)を領する脇地頭とにわかれます。人民の方から見ると三人の領主がいることになります。この領地をもらう貴族は慶長ごろ(一六一〇)三七〇家(内惣地頭七九家、脇地頭家二百九十二家)あったといいます。
それ以外の士族は平士といい役所やこれらの大家につとめて俸給をもらうのですが人口の増加につれまっさきに困るのはこの人々です。
宮古・八重山は領主はなく在番という役人だけです。大島もとくべつな領主はなく役人は行っていたかどうかはっきりしません。
しかしこの地頭は首里にいて領地からの収入、多いのは百五十石ばかり、少いのは二・三十石ばかりとっていました。その他いろいろの利益をうけます。
今度は地方のがわから見ますと、各間切に番所があり、尚真から尚寧のはじめごろまで按司掟(おきて)という役人が首里から来ていたが、島津の支配になってのちはこれをやめ、住民の中から地頭代(宮古・八重山は土地の士族の中から頭)をえらび、各間切の事務をとらせます。地頭代になる人は或る程度の学問があり多くは私有地をもつ富農です。大島は大親が間切の一ばん上の役人です。
先島及び久米島には在番が首里から行っておりあとになると各間切に検者が一人ずつ、納税成績のわるい間切は更に下知(げち)役が一人ずつ行っています。
農地は、一部は役地(地頭・ノロ・間切役人が耕作の権利をもつ)私有地(個人の所有)公有地の三つにわかれます。公有地が全休の七〇~八〇%をしめ、これを各戸の耕作能力におおじて(ママ)わりあて、耕作させます。そして収穫の約半分は租税として出します。租税は毎戸にかゝるのでなく各間切にまとめて来たものを各戸にわりあてます。その外に年に一日から二日ぐらい地頭のために働く義務があり、そのふたんは大へんおもいものです。
宮古・八重山は人頭税といって、一人一人に税がかゝりますから病気の人や貧しい人はなんぎしました。
時代によって島民の生活はかわって来ますが、大体において貧富の差がだんだん大きくなり大多数のものは生活がくるしくなって行きます。
【問題】
一、尚真王の政治について批評してごらん。
 二、祖先の家柄をほこったり、またこれを恥じたりする理由はありません。なぜですか。
 三、沖繩にも未だ封建時代のわるい風習がのこっています、どんなことですか。

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