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自虐教科書の病理⑥ 支那事変〜局地紛争を拡大させた蒋介石と日本の新聞

 殆どの教科書は、この戦いを「日中戦争」としていますが、それは誤りです。歴史的にそういう戦争はありません。学習指導要領は「日華事変」としています。筆者は、政府が閣議決定した名称を正しく用います。
 支那事変の発端は、昭和12(1937)年7月7日の蘆溝橋事件です。教科書は、満州事変で火がついた中国大陸侵略の炎が、ついに本土にまで広げられた、と責任を我が国の側だけに求める記述になっています。しかし、事実は大いに異なります。
 蘆溝橋事件は小さないざこざに過ぎなかったのですが、それを拡大したのは明らかに中国軍なのです。事件直後、政府(近衛文麿内閣)からも参謀本部からも、「不拡大方針」の指示が出ており、現地で停戦協定も結ばれています。しかし、中国側が協定を無視して郎坊事件、廣安門事件などを起こした為、見合わされていた内地師団の増派が、居留民保護のために決定しました。さらに7月29 日に起こった通州での日本人大量虐殺事件は国内世論を激高させました。朝日新聞など主要メディアも、「暴支膺懲」と国民感情を煽り立てました。
 この時点で政府は、この戦いを北支事変と呼んでいました。確かに軍人の中には、これを奇貨として、華北での権益を確乎たるものにしようと考えた者もいましたが、事変初期段階での駐華ドイツ大使オスカー・フォン・トラウトマン仲介による和平工作で示された条件には、華北における不平等な協定の廃止なども含まれており、侵略意図などなかったことがわかります。日本側の和平条件を見た蒋介石も「何のために戦っているのかわからない」と呆れたほどだったといいます。
 北支事変を支那事変に拡大したのも、明らかに中国側でした。大山震太郎大尉殺害事件で上海が緊張したために、日本軍は上海への海軍陸戦隊(いわゆる海兵隊)の派遣を決定してはいたのですが、これに対して蒋介石は、国際都市・上海を、敵味方の区別なく盲爆し、日本軍に責任を転嫁しようとし
ました。こうして戦火は華中にも飛び火したのです。
 ところで 、前述のトラウトマン工作における日本側の寛大な条件に対して、蒋介石は一旦これを拒絶していました。9ヶ国条約(ワシントン会議で結ばれた、中国の現状維持を定めた国際条約)の締約国会議に期待を寄せたためですが、結局徒労に終わりました。その間、12 月13日に首都・南京が陥落し、数日後には疎開していた住民が帰還して、日本軍によって平和裡に軍
政が開始されました。このことは当時の朝日新聞も報じており、「大虐殺」などなかったことを裏付けています。その後ようやく蒋介石は、日本側の和平条件に対して漸く重い腰を上げたのですが、今度は日本側の態度が変化していました。
 「首都まで落としたのに、賠償金もないような和平条件のままでは、国民が納得しない」。五相(主要閣僚)会議でそう主張したのは、海軍出身の末次信正内相でした。治安を預かる内務大臣として、日比谷焼き打ち事件(日露戦争後のポーツマス条約調印に際しての大規模な暴動)のようなかたちでの国民感情の爆発を警戒していたのです。そして和平条件は加重され、これを見た国民政府は逡巡しました。そして年末にもたらされた中国側の回答は、日本側に遷延策だと判断され、昭和13年1月16 日、有名な(第一次)近衛声明が発表されます。両国は泥沼の奥に、さらに一歩足を踏み込んでしまったのです。
 もちろん、日本側の政策決定にも問題はありました。しかし、事変を拡大した責任の一端が中国側、そして日本の新聞報道にあることは教えられるべきです。

連載第48回/平成11年3月17日掲載

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