明治憲法の素顔 Part 2 ⑥「五箇条の御誓文と憲法制定」
学校教育においては、多くの場合、明治憲法は否定的にしか取り上げられていません。特に日本国憲法と比べて、劣っている面ばかりを指摘し、当時においては、世界に誇り得る先進性を持っていたことや、その仕事に携わった明治人の気概には目が届いていません。
憲法制定の発端は、慶応4(1867)年に出された五箇条の御誓文にさかのぼります。これは明治天皇が、新政府の基本方針について、先祖の神々の前で誓いを立てるというかたちで披露されたものです。その中に、「広く会議
を興し万機公論に決すべし」とあります。つまり、明治新政府は最初から議会政治、つまり立憲政治を行うことを宣言していたのです。
その後、明治7(1874)年に板垣退助らが民撰議院設立の建白書を政府に提出し、自由民権運動に火がつきます。そして明治10 年の西南の役で、西郷隆盛率いる鹿児島の士族が「百姓・町人の軍隊」に敗れたことが、不平士族の武力による抵抗をあきらめさせ、彼らの政治運動への参加を促しました。
教科書はここで、政府が運動を一方的に弾圧したかのように書きますが、政府と運動家の目指していた方向は同じです。つまり、欧米と比肩できる近代国家を確立するため、その基礎となる憲法と議会をつくるということですした。しかし、政府が充分に時間をかけて研究することを旨としていたのに対し、運動家は性急にそれを求め、さらには欧米並みの植民地を持つことを政府に要求するなど、言論を過激化させていたことが取り締まりを招いた原因です。民権派のテロ行為や犯罪行為も憂慮すべきものでした。
さて、憲法の起草に直接従事したのは、伊藤、井上毅、伊東巳代治、金子堅太郎の4人でした。彼らは法律顧問の外国人、カール・ロエスレル(ドイツ)、フランシス・ビゴット(英国)、ギュスタヴ・ボアソナード(フランス)の意見も参考にしました。
最初に伊藤が、他の3人に示した憲法起草の原則には、「憲法は日本の国体及び歴史に基づき起草すること」とありました。我が国の憲法制定、君主の圧制に対する国民の要求によって生まれたという西欧の事情とは異なり、
五箇条の御誓文の精神を具体化するということなのですが、伊藤らは、欧米先進国の憲法も充分に斟酌し、世界に劣らぬ近代的な憲法を作るため、精力的にその仕事に従事しました。
もちろん4人は、草案起草中はその内容について一切口外することはありませんでした。そのため世間では、「伊藤は2年間もドイツで憲法の取り調べをしてきた。それゆえ、伊藤が起草する憲法は、ビスマルク流の圧制憲法に違いない」という噂が流れ、まだ見ぬ憲法に激しい攻撃が加えられるという一幕もありました。国民の政治的未熟さがわかるエピソードです。
完成した草案は、明治21 年5月から枢密院で詳細にわたって審議されました。明治天皇も1日も欠席することなくご臨席になりました。11 月12 日の会議中に皇子昭宮の訃報が伝えられた際にも、天皇は伊藤をして審議中の条項が終わるまで議事を続けさせられたのです。
こうして、明治天皇を筆頭とする新政府が、全精力を傾けて、国運の基礎となる憲法を発布したのは、明治22 年2 月11 日、紀元節のことでした。前夜からの雪が降り続く中で厳かに行われた発布式。我が国が名実共に近代国家への第一歩を生み出した記念すべき1日となりました。
連載第113 回/平成12 年8月9日掲載
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