見出し画像

日本人の大発見② 人種差別で第1回ノーベル賞を逃した細菌学者・北里柴三郎

 明治34(1901)年、第1回ノーベル医学・生理学賞のファイナリストになった日本人がいます。後にペスト菌を発見するなど、世界医学史上に名を残す細菌学者・北里柴三郎です。学校で習ったことがなくても、新紙幣の顔になることで、その存在を知った方も多いのではないでしょうか。
 嘉永5(1852)年、北里は現在の熊本県に生まれました。明治維新の波は北里の運命をも翻弄しました。学んでいた藩校時習館は17歳の時に廃校となり、新設された医学校に籍を移しました。最初は洋学を学ぶ手段として医学を勉強していた北里でしたが、お雇い外国人のひとりで、オランダ人医師コンスタント・ゲオルグ・ファン・マンスフェルトの知遇を得て、真剣に医学に取り組むようになりました。そして、彼の薦めで東京医学校(現在の東京大学医学部)に進み、明治16年に卒業しました。
 当時、世界の医学界は大きく勤いていました。ドイツのハインリヒ・ヘルマン・ロベルト・コッホ が結核菌に続いてコレラ菌を発見し、一方、フランスでもルイ・パストゥールが細菌学を極め、伝染病の原因が次々と明らかになっていました。次の段階は、その予防法や治療薬であることは言うまでもありません。
 東京の医学校を卒業したら、地方の病院長などに高給で迎えられるのが常でしたが、北里は内務省衛生局に入り、大きな視野で国民の健康を見守ることを志しました。そして、勤務して聞もない明治17年、内務省よりドイツ留学を命じられてコッホの門下生となり、細菌学の研究に没頭しました。
 ある細菌が病原体であることを証明するためには、その細菌を単独で培養し(純粋培養)、試験動物に発症させるという過程が必要です。結核菌やコレラ菌に関しては、それが比較的容易にできたのですが、破傷風菌ではなかなかうまくいきませんでした。北里は先行研究から、空気の存在が破傷風菌の発育を阻害すること、患者が罹患した時期により菌の形状が異なることを発見しました。
 これらの知見を基に研究を進めた北里は、明治22年に破傷風菌の純粋培養に成功し、さらには、その毒素を研究することによって免疫体を発見しました。
 その後、北里は破傷風の、そして同僚のエミール・アドルフ・フォン・ベーリングはジフテリアの治療法を研究し、血清療法を確立させました。この功績により、2人はともにノーベル賞候補に名前が挙がったのですが、受賞したのはなぜかベーリングだけでした。そもそも血清療法は北里のアイデアであり、共同研究であったにもかかわらず、北里は選ばれませんでした。人種差別意外に理由は考えられません。栄えある第1回のノーベル賞受賞者は、白人でなければならなかったのです。
 名声が世界にとどろく細菌学者となった北里でしたが、欧米の大学からの招聘を断り、明治25年、研究の成果を祖国の医学の発展に生かすために帰国しました。
 北里は文部省に伝染病研究所の設立を提案したのですが、内務省出身の北里の意見を、文部省・東大ラインの人々は冷ややかに扱いました。結局研究所は福沢諭吉の援助で設立され、北里は所長になったのですが、大正3(1914)年にその研究所は一方的に文部省に移管されてしまうのです。北里は所長を辞し、多くの研究者もそれに従いました。そして今度は、私財を投じて北里研究所を設立しました。また福沢への恩返しにと、慶応義塾大学医学科(現医学部)創設にも尽力し、初代学科長にもなりました。
 北里は昭和6(1931)年、その光栄ある生涯を閉じました。この北里の名前を冠した北里大学は、北里研究所50周年を記念して設立されたものです。

連載第119回/平成12年9月20日掲載

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?