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教室から消えた沖縄の歴史・仲原善忠原著『琉球の歴史』(上・下)を読む~第11章 18世紀以降の産業と生活③

3.都市の生活と町百姓

【解説】
 社会史として非常に興味深いところであるが、仲原の筆が混乱を招いている。あっちこっちに飛ぶので、読んでいてまとまりを感じない。中学生がこれを読むときに、整理をするのが難しいと思えるほどだ。かなり苦労して整理した。
 「女労男逸」ということば、初見だったのでネットでリサーチしたのだが、「男逸女労」ということの方が多いようである。折口信夫が『琉球の宗教』(1923年)で使っているが、沖縄(奄美を含む)史以外で使われている例はヒットしない。文字を見れば意味は分かる。仲原が書くように、「女労男逸」の方が意味は取りやすいし、もともと、一般的な四字熟語ではないようなので、仲原の記述に従う。

【本文】
 王国時代の都市と言えば、首里と那覇ですが、首里は政治の中心であって産業としては泡盛と織物、養豚の外は目ぼしいものはありません。
 那覇はとても複雑な町です。漢人の子孫である久米村の人は、首里の人とほとんどおなじ政治上の特権を持っていますが、那覇の士族しか、那覇の役人にはなれません。地方の平民が、自分が住む間切の役人にしかなれないのと同じです。

05那覇の家(カラー化)

那覇の旧家の石垣

 役人を長くやっていると、収入が多い役に就けるので、那覇の男たちはこれを望んだといわれます。役人を志望する者の家族は、生活の必要上、市場で商売をするようになり、だんだんとビジネスに関心を持つ人が多くなりました。女性が商業活動をすることが多かったので、よそから来た人の目には、「女労男逸」(男は働かないで、女が働いて食わせてもらう)の国と見えたようです。
 那覇は薩摩の在番奉行の所在地でした。在番奉行とは、租税品や諸物産の出し入れ、対清貿易の監督などの通商関係を司っていました。そのため、租税や商品など、各地の物資が集散したので、仲買、問屋、小売、市場、質屋、貸金しなどが栄え、また間切宿、船宿などの宿泊施設もできて交通の中心地ともなりました。
 織物、漆器、陶器、皮細工、木工など、職人による手工業の製造所もでき、全島で最も魅力のある町となりました。
 都市で職人として働いた百姓のことを町百姓と言いました。酒、とうふなどの製造に従事するほか、今日にまでその伝統が伝わる陶磁器、紅型など工芸は、主に町百姓の手によって、技術が高められたものです。また、町百姓は商人、役所に雇われた職人(瓦、漆器など)、役所の下役や用務員などでとしても働きました。生活は比較的安定していましたが、右を見ても左を見ても貴族、士族ばかりで、肩身のせまい思いをしていました。さらに、町内の雑事、たとえば葬式や綱引きのような行事の際の労働は、すべて百姓がしなければなりませんでした。

【原文】
二、都会の生活
 都会の百姓(町百姓という)は酒・とうふ、その他の製造から、商人、役所の諸職人(瓦、漆器、その他)下役、小使等で生活のくるしみは少ないが、右も左もすべて貴族・士族で、町内の仕事たとえば葬式とか綱引きのようなことでさも労働はすべて百姓がしなければならない。肩身のせまい思いをしなければなりません。しかし陶磁器、紅型など工芸文化はおもにその人たちの手によってす
すめられたものです。
 都会地たる首里と那覇はその性質が大へんちがいます。首里は政治の中心で産業としては泡盛と織物・養豚の外は目ぼしいものはありません。
 那覇はふくざつな町です。中国人の子孫である久米村の人は、首里人とほとんどおなじ政治上のとっけんをもっているが那覇の士族は、那覇の役人にしかしてくれない。地方の平民が間切の役人にしかなれないのとおなじです。那覇ではこれらの役人志望者の家族が生活の必要上、市に出てあきないをしたり、営利のきょうみに心をひかれる人が多くなります。市に出て活動する女が多いので外来者の目には
女労男逸の国と見えたようです。役人をながくやっていると収入の多い役につくことが出来るのでみなこれを望んだといわれます。
 那覇はさつまの在番奉行―これも租税品や諸物産の出し入れ、中国貿易のかんとく等の経済関係がおもな仕事である―の所在地たる外、各地の物資―租税、私売品―の集散、交通の中心地となり、宿屋―間切宿・船宿―仲買・問屋・小売・市場がはんじょうし質屋金貸し等がさかえ、一方において織物、漆器、陶器、皮細工、木工などの手工業もでき、一ばん、みりょくのある町となりました。

写真キャプション
那覇の家 ※注:原著はモノクロだが、その写真をカラー化した。

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