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教室から消えた沖縄の歴史・仲原善忠原著『琉球の歴史』(上・下)を読む~第1章 太古の人々の生活(原始時代)①

第1章 太古の人々の生活(原始時代)
1.人類の文化の歩み

【解説】
 他の部分もそうなのだが、50年以上前に研究に基づいているので、かなり時代遅れの感がある。だがそれはやむを得ないことだ。それを克服してこそこれを復刻する意味があるというものだ。
 尚、国名としては「中国」を使うが、正確を期すために、地名を指す場合には「支那」を使う。これは「China」の日本語である。因みに仲原は中国と支那をを本書の中で混在させているが、厳密な使い分けではないようだ。
 今回紹介する時代は、沖縄県独自の歴史とは殆ど関係ない箇所なので、仲原の語り口をできるだけ踏襲しつつ、筆者の知見と、現行の中学校社会科教科書などを参考に、大幅に加筆修正する。
 ただ、仲原の癖なのだが、次の時代の話を先走って紹介しているところが多々ある。例えば、今回でいえば弥生時代の話は勇み足なのだが、一応本文に沿って、その話題も割愛しないで入れておくことにする。後日完全版を編集することがあったら、まとめて整理することにしたい。

【本文】
 アジア大陸の東の海に、細長く連なる島々、それが私達の郷土・沖繩です。北は奄美諸島、吐噶喇(とから)列島をへて九州に連なり、西は東シナ海を隔てて支那大陸があります。東は太平洋で、その向うにアメリカ大陸、南は台湾、フィリピンその他の南方の諸国があります。
 沖縄の歴史の歩みは、その位置と深い関係があります。
 この島々に私達の祖先が住み着いたのは、いつごろでしょうか。はっきりしたことはわかりませんが、数千年前、少くも2千数百年前のことです。どうしてそれがわかるのでしょうか。

 その疑問に答える前に、人類がどのようにして進化してきたか、ということを簡単に見ておきましょう。
 最古の人類と言われているのは、今から700~400万年前に出現した猿人です。2001年に西アフリカのチャドで発見された、サヘラントロプス・チャデンシスが、今のところ最も古い人骨化石だと言われています。同じくアフリカで発見されたアウストラロピテクス群も古い人類です。彼らは非常に単純な打製石器を使用し、狩猟生活を営みました。打製石器を使った時代を旧石器時代と言います。
 約60~30万年前に出現した原人は形の整った打製石器を使用し、洞穴や河岸に住んで、採集した木の実や野草、動物などを食料としていました。中国で発見された北京原人や、インドネシアのジャワ島で発見された直立猿人が有名です。石器は、切るもの、突くものなど、用途別に作られ、これを使って鹿、熊、虎、狼などの動物を食べていました。北京郊外の同時代の遺跡では、10数万点の遺物が発掘され、石器の外に灰や炭などがあり、火を使っていたこともわかりました。彼らは火を利用して暖をとり、食料を加工・保存するようになりました。そして間もなく、ことばでコミュニケーションができるようになっていったのです。
 約20万年前には旧人が出現しました。ネアンデルタール人は世界各地で発見されています。旧人は脳の容積が私たちとほぼ同じになり、知能が大幅に発達してきました。生活が豊かになり、寒さを防ぐために毛皮を着たり、住居に暖炉を作ったりしたました。また原始的な宗教行為が発生したのもこのころです。
 現生人類に最も近い新人は、約4~3万年前に現れました。フランスで発見されたクロマニヨン人、中国で発見された周口店洞上人が有名です。石器の加工が巧みになるとともに、動物の骨や角で作った釣り針や矢じり(骨角器)を使うようになったので狩猟技術が大幅に向上したと思われます。スペインのアルタミラ、フランスのラスコーで描かれた洞穴絵画はこのころのものです。宗教的な観念も発達し、鎮魂のための屈葬を行ったり、豊穣を祈る土偶を作ったりしています。

 日本列島で初めて打製石器が発見されたのは、昭和21(1946)年のことです。それまでは、日本列島に旧石器時代に相当する文化はないと考えられていました。しかし、群馬県にある岩宿遺跡の赤土(関東ローム層)から民間考古学者の相沢忠洋が石器を発見し、それがきっかけで発掘・発見へとつながりました。現在では北海道から沖縄まで、各地で旧石器時代の遺跡が確認されています。 日本旧石器学会が平成22(2010)年に集計した遺跡データベースによると、日本列島には旧石器時代遺跡が10,150か所もあるそうです。沖縄県にも1か所あります。石垣市の白保竿根田原洞穴遺跡は、国内最古の約2万7千年前の全身の人骨発見されているほか、全部で19体分の旧石器時代の人骨が出土しており、世界最大級の旧石器時代の人類遺跡だと言われています。また、国内で初めての旧石器時代の墓域が確認されおり、国の史跡にも指定されています。

 今から1万年ぐらい前には、最後の氷河期が終わって、日本列島は大陸と切り離されます。そしてその頃に磨製石器が現れます。この磨製石器の時代を新石器時代と言います。日本列島に住んでいた人々は、石器・骨角器などのほか、素焼の土器をつくり、簡単な家も建てました。
 この土器の表面には縄目の模様がついているので、縄文土器と呼ばれます。最古のものは、1万5千年ほど前のものだといわれます。
 繩文時代の住居あとや、貝塚から発見された遺物によると、縄文人の生活は、最初は漁猟が中心で、野山では木の実、草の芽を集めて、食料を補っていたと考えられます。
 この時代は家のまわりなどで、植物を栽培したと考えられますが、最初は農業というほどのものではありません。
 貝塚は、漁猟時代の人たちの「ごみ捨て場」といわれます。貝殻のほか、魚や鳥獣の骨、石器や土器などもあって小山のようになったのが、長い年月のあいだに土に覆われてしまったものです。
 もっとも古い推定では、紀元前6000年ごろには、日本に稲作農業が始まりました。また、金属の道具も使われ始めます。西日本には良質の弥生土器が現れます。
 この土器は、繩文土器よりも、模様はあっさりしたものですが、「ろくろ」をつかったので形も整い、丈夫で固く焼き上がっています。
 農具はまだ石器、木器ですが、しだいに鉄器に代わり、文化のすすんだ大陸との交通も頻繁となり、沖縄にも文明の夜明けが近づいたようです。

 旧石器時代は数百万年続きましたが、新石器時代は1万年ほどです。人類は急速に進化を遂げ、今から数千年前になると金属器(青銅器・鉄器)の時代へと移っていきます。

【原文】
第1章 太古の人々の生活(原始時代)
1.人類の文化の歩み
 アジヤ(ママ)大陸の東の海に、ほそながくつらなる島々、これがわたしたちの郷土沖繩です。
     北は大島諸島をへて九州につらなり、西は東支那海をへだてて支   
    那大陸があります。東はひろい太平洋で、その向うにアメリカ大
    陸、南は台湾、フィリピンその他の南方の諸国です。
 沖繩の歴史のあゆみは、その位置とふかいかんけいがあります。
 この島々にわたしたちの祖先がすみついたのは、いつごろでしょうか。はっきりしたことはわかりませんが、数千年前、少くも二千数百年前のことです。どうしてそれがわかるか。
 それに答える前に、人類の文化はどのようにしてすすんで来たか、ということを考えて見ましょう。
 人類の祖先が直立し「道具をつくる動物」として地球上にあらわれたのは、六十万年も前だといわれます。彼等は、今の人間とはちがい、猿と人間との中間にあたる「直立猿人」といわれます。
 猿人たちは、石をうちかいたかんたんな道具、いわゆる石器をつくりました。しかし、しだいに火を利用し、ことばを話すようになりました。
 中国の北京の西南にある村はずれで、大きな遺跡が発見され、十余万点の遺物が堀り出されました。石器の外に灰や炭などがあるから火をつかったこともわかります。
 彼等を「北京猿人」とよび、四○万年~二〇万年前のものといわれます。
 石器は、まだそまつですが、切るもの、突くものなど、いろいろにわかれ、この道具で、彼等は鹿とか熊とか、虎・狼などの動物をとらえてたべました。
 北京猿人よりも、もっと進んだ原人たちの作った石器も、ヨーロッパや印度などで発見されています。十万年ばかりの原人になると死人をほうむることを知っていたのもいました。
二万年ばかり前の原人になると、動物の骨や角で針を作ったり、ほら穴のかべに絵をかいたりしています。
 一万年ばかり前になると、石器の形もつくり方もたくみになり、きれいにみがいた石器もあらわれます。
 この新らしい(ママ)石器の時代を新石器時代、その前を旧石器時代といいます。
 旧石器時代は数十万年つづくが、新石器時代は一万年以内ということになります。新石器時代の人は、数千年前になると金属の使用を発見し、人間の世界に文明の光がさしそめることになります。
 日本列島(北海道から沖繩諸島をふくむ)にも旧石器があったことが、近年わかりました。
 それはしかし、数万年前日本列島がアジア大陸とつづいていた時代のものだから、その時代の人が、今の日本人の祖先かどうかはわかりません。
 昭和廿一年の秋、群馬県桐生市のちかくで、一人の青年がめずらしい小さな石器を発見しました。これがきっかけとなり、あちこちでそれに似た石器が発見され、それが旧石器だとわかりました。それで、この本でも、その点は書き改めました。
 それらの石器がうまっていたのとおなじ地層から人骨が発見されると、日本人とのかんけいが、あきらかになりましょう。
 日本の新石器を作った人たちは、日本人の祖先といわれるが、どこから来たか、まだよくわかりません。彼等は石器・骨器などのほか、素焼の土器をつくり、かんたんな家もたてました。
 土器のかもてには繩のもようがついているので繩文土器とよばれ、はじめのものは九千年ばかり前のものだといわれます。
 繩文土器時代の住居あとや、貝塚から発見された遺物によると、彼等の生活はまだ原始的で漁猟がおもな仕事でした。野山で本の実、草の芽をあつめて、おぎないにしたと考えられます。
 この時代の家になると、家のまわりなどで、植物をさいばいしたと考えられるが、農業というほどのものではありません。
貝塚は、漁猟時代の人たちの「ちりすてば」といわれます。貝殻のほか、魚や鳥獣の骨、石器や土器などもあって小山のようになったのが、長い年月のあいだに土におおわれてしまったものです。
 紀元前二百年ごろになると、日本に稲作農業がはじまり、又、金属の道具もあらわれ、土器も良質の弥生土器が西日本にあらわれます。
 この土器は、繩文土器よりも、もようはあっさりしたものですが、「ろくろ」をつかったので形もととのい、かたく焼きしめられています。
 農具はまだ石器・木器ですが、しだいに鉄器にかわり、文化のすすんだ大陸との交通もひんぱんとなり、文明の夜明けがちかづいたかんじがします。

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