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教科書が教えない軍人伝⑧ 岡田啓介(1868~1952年)

 昭和天皇は大相撲がお好きでしたが、勿論のこと、贔屓力士の名前など口にされることはありませんでした。しかし、崩御の後に公刊された『独白録』の中で、陛下が信頼されていた人物として、何人かの名前をあげておられます。その中のひとりが、海軍大将・岡田啓介です。
 岡田は慶応4(1868)年に福井藩士の家柄に生まれました。明治18(1885)年に海軍大学校を卒業した後は、水雷の専門家として第1次世界大戦の膠州湾でのドイツ艦隊との戦いで活躍しています。
 その後、大正12(1923)年に海軍次官、翌年には連合艦隊司令長官、昭和2(1927)年には、田中義一内閣で海軍大臣と、要職を歴任しましたが、その2年後には海相を退いて、軍事参議官となりました。いわぱ閑職なのですが、岡田はその立場で調整役としての役割を果たしました。
 昭和5年、ロンドン海軍軍縮会議が開かれました。浜口雄幸(立憲民政党)内閣は、海軍軍令部強硬派の主張を無視するかたちで条約に調印しました。これに喘みついたのが、犬養毅率いる野党・立憲政友会でした。戦後首相となる鳩山一郎もそのメンバーでした。政党人である彼らがまず、条約調印は「統帥権干犯」だと言い出したのです。
 軍への迎合は、政党政治家の行為としては、まったくの愚行でした。加藤寛治軍令部長らは、我が意を得たりとばかりに、政友会と歩調を合わせて政府を責め、政局は大混乱に陥りかけたのです。この時、軍令部内の調整にあたり、政府との決定的な対立を巧みに回避させ、浜口内閣の危機を救ったのが他ならぬ岡田でした。
 その後岡田は、昭和7年の5.15事件後に成立した斎藤実挙国一致内閣で再び海相となり、同内閣が倒れた後は、大命を受けて内閣を組織しました。ここにおよんで犬養のあとを襲った政友会総裁・鈴木喜三郎は、自らが総理になれなかった腹いせに、岡田の協力要請を拒絶して野党となりました。降ってわいたような「天皇機関説事件」も、政友会は戦術として利用しました。最初は美濃部達吉を擁護していた岡田もついに圧力に負け、国体明徴声明を出すに至りました。こうしてみると、憲政を守る気などさらさらなかった政友会が自らの首を絞め、政党政治を殺したといえるでしょう。しかし、教科書は、岡田内閣で軍国主義化が加速したと書くばかりで、政党人の責任を問う声はありません。
 昭和11年2月26日、岡田がいた首相官邸を陸軍の反乱軍将校が襲撃しました。暴徒は岡田の義弟・松田伝蔵大佐を岡田と誤認し殺害しました。女中部に逃げ込んだ岡田は九死に一生を得ましたが、しばらくの間、生死不明でした。そのまま岡田内閣総辞職となれば、反乱軍が求めた陸軍軍人による内閣が成立しそうな勢いでしたが、それを認めなかったのは昭和天皇のご意志でした。これは、語られることのない昭和天皇の功績です。
 結局、事件の責任をとって岡田は総辞職し、その後は重臣として、対米戦争回避、戦局悪化後の東条英機内閣打倒に尽力しました。東条内閣が総辞職した後、小磯国昭陸軍大将と共に組閣を命じられ、副総理となりました。そして、昭和20年4月に成立した鈴木貫太郎(海軍大将)内閣には書記官長(現在の官房官)として娘婿の迫水久常を送り、終戦工作推進のための援助を行うなど、側面から亡国の瀬戸際にあったわが国を支えたのでした。

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