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教室から消えた沖縄の歴史・仲原善忠原著『琉球の歴史』(上・下)を読む~第16章 王国末の社会と政治③

3.王朝末期の財政

【解説】
 文の繰り返しを解消して読みやすいように整理し、文章末の借金の件は、仲原が米価を提示しているので、今日の価格で換算し、読者がわかりやすいようにしておいた。
 最期の幕末、日本の各藩も財政難は同じだった。各藩は商人からの借金で首が回らなくなり、「財政再建団体」のように、財政を地元の大商人に司らせ、その「指導」で質素倹約に勤めていた大名もいたほどだ。しかし、琉球との違いは、農民が豊かであったということだ。仲原は「苛斂誅求」の中身は書いていないが、王朝末の年貢率は、7~8割にもなっていたということだ。ところが内地では、新田開発、品種改良や隠し田などの存在、或いは商品作物の栽培などにより、家光の頃の40~60%から、実質年貢率は10~20%にまでなっていた。この底辺を支えた農民の、まさに底力が、明暗を分けたのだ。大名も、農民とトラブル(一揆、強訴、逃散など)を起こせば、改易やおとり潰しなどのペナルティがあった。だから農民と「うまくやっていくこと」を念頭に、官僚化していったのだ。
 実際、版籍奉還や廃藩置県に対して大名からの意義申し立てがなかったのは、明治政府が莫大な借金を肩代わりしてくれたからで、同じことは琉球王にも言えることだろう。あのまま両属関係を続けていても、得をするのは明からやって来た久米村の連中だけで、王にも国民にも、何の利益もなかったのは自明だ。

【本文】
 王朝末期、琉球王国の財政は逼迫していました。財政を補うために政治はますます厳しくなり、苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)により、人心は王とその政府から離れていきました。
 どうして財政が苦しくなったのでしょうか。それは租税収入が増えないのに、支出だけが増加していったことから、収支のつりあいがとれなくなったからです。では一体、何に対してお金を使っていたのでしょうか。
 王がかわった時には、清国から冊封使(さっぽうし)が来て、戴冠式をするのですが、その費用は莫大なものになりました。朝貢貿易でプライドを捨てて利を得ていると言っても、これでは意味がありません。
 尚育王、尚泰王の時は、士族の身分と位を売ってやっとその費用をととのえました位を買ったのは各地の富農たちで、士族の身分を買ったのは主に那覇の商人たちでした。
 また、1816年にバジル・ホールが来て以来、外国船がたびたび来たので、その接待の費用がかさんだうえに、対応を協議するために薩摩との往来も頻繁になりました。
 役人の数も無駄に多くなっていました。王府から俸給を出している人数は約1500人もいたのですが、「城内の儀式や取り締まり」の係だけで160人、「士族の系図」の係だけで24人もいるなど、ほとんど必要のない役人が多くなっていました。
 実際、明治5年に尚泰王の使者が上京した際も、鹿児島県庁からは「お供などは従来の3分の1にするように」との厳しい注意があったにも関わらず、正・副使の外35人もの役人が随行しています。正・副使のお供と、そのお供のお供がついていきました。明治になっても目が覚めず、古い習慣が頭にこびりついてなかなか改めることができなかったのです。
 王府は明治のはじめには鹿児島商人から当時のお金で20万円、鹿児島県庁から5万円の借金をしています。米1石(約150㎏)3円の時代です。現在の一般的な米の価格(10㎏=3000円)で計算すると、1石が45000円になります。つまり、米を基準に考えると、物価は15000倍になっているわけですから、琉球王府が借りた25万円は、3億7千500万円になります。勿論このお金は、人々の福祉や生活のために使われたのではありません。儀式や無駄な役人の給料に消えていったものなのです。

【原文】
三、政庁の財政こんなん
 政庁の財政はひっぱくし、政治はきわめてざんこくなやり方になり、人心は政庁をはなれつつあります。
 王がかわった時には、中国から冊封使(さっぽうし)がきて、戴冠式をするが、その費用はたいへんなものです。
 ところが尚育王、尚泰王のときはその費用がなく、士族の身分と位を売ってやっとその費用をととのえました。(第十一章)
位を買ったのは各地の富農たちで、士族の身分を買うのはおもに那覇の商人たちでした。
 それでは、どうして政庁の財政がくるしくなったか。土地からあがる租税は、もとのままであるのに政庁の支出は多くなり、収支のつりあいがとれなくなったからです。
 一八一六年、バジル・ホールが来て以来、外国の船がたびたび来るので、そのせったいの費用、そのためさつまとの往来もひんぱんとなり、又役人の数もひじょうに多くなっています。  ‘
     政庁から俸給を出している人数は約千五百人いたが、その大部分
    は県庁になるとほとんど必要のない人たちです。例えば、「城内の
    儀式又は取りしまり」の係りが、百六十人、士族の系図係りが二十
    四人います。県庁になると、このような仕事のかかりは、ほとんど
    必要がなくなります。
     明治五年に、王の使者が上京した時も、鹿児島県庁から、お供な   
    ど三分の一にするようにとの、きびしい注意があったにもかかわら
    ず、正・副使の外三十五人行っています。正・副使のお供と、その
    お供の供がつくわけで、古い習慣がこびりついてなかなか改めるこ
    とが出来なかったと見えます。
     財政はいつも不足がちで、政庁は明治のはじめには鹿児島商人か
    ら二十万円、鹿児島県庁から五万円の借金をしています。(米一石
    三円の時の二十五万円です)

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