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教室から消えた沖縄の歴史・仲原善忠原著『琉球の歴史』(上・下)を読む~第2章 部落時代④

4、村の生活と文化(1)

【解説】
 素直に読んだのではわからないであろう言葉が出てきた。「船はぎ」である。
 「舟をはぐ」というのは、木で船を作ることで、標準語ではない。調べてみたところ、岩手県南三陸町にも同じ方言がある。東北と沖縄に残っているということは、古い時代の日本語の名残だと思われる。
 原文で仲原は「お岳」と書いている、これは「御嶽(ウタキ)」のことであろう。すべてそのように書き直した。琉球神道についてはほとんど知識がないので、果たして追記したことが正確なのかどうか不安である。読者のご指摘をいただければと思う。
 「オモロ」については、説明文が重複しているのでそれを整理した。
 その他、例によって文章の整理をして、読みやすくした。

【本文】
 村は、初めは高いところにありましたが、だんだん平地におりてきました。つまり村の時代は前期と後期にわかれるのですが、ここではまとめてお話ししましょう。この時代のことは、古い時代の歌、古い書物、今に伝わるお祭り、または村のあとなどを材料として調べることができます。 

①オモロ
 沖縄の歴史では、「オモロ」という史料が最も重要です。古い時代の歌をすべて「オモロ」といいます。その歌の中には文学としてもすぐれたものが少くありません。16世紀から17世紀にかけて、3回にわたって各地のオモロをあつめた『オモロ草紙廿二巻』がありますが、これは沖縄、奄美大島の古い歴史を知ることのできる、最も確かなものです。

②根所と根神
 村の中心は根所(ニードゥクル、ねどころ。根尾ともいいます)という家で、そこの男主人・根人(ニッチュ、ニーチュ)が共同の仕事を指図します。しかし、根人は村の主人でもなく、村人もまたけらいでもありません。井戸をほり、舟を作り、家を立て、種子をまき、イネを刈る……。こういった村人が共同でやる仕事の世話をするだけです。
 この時代は、祭が今よりもはるかに重視されています。祭を行うのは女性で、根所の娘か近親の娘の中からえらばれ、根神(ニーガン)と呼ばれました。この風習は今日まで続いている所がまだあります。
 村人の間には貧富の差はあまりなく、上下の階級もありません。しかしこの根人と根神は重んじらえました。また経験を積んだ年長者も尊敬されました。

③農業技術
 稲作の技術についてはよくわかりませんが、イネは直播(じかまき)で、年2回収穫したと思われます。
 まだ鉄のすきやくわはありません。石器や木の農具をつかっていました。
牛や馬がいつごろ入って来たかわかりませんが、沖縄では早くから牛馬を使っていました。牛は水田に入れて田を踏ませるなど、耕作に使っていました。馬は乗用や運搬用に使っていました。
 イネは穂だけをつみ(穂首刈り)、わらはそのままにしておきました。そして稲穂をそのまま、木臼に入れ竪杵でつき、籾をおとし玄米にします。前項の銅鐸の線画にあったようにです。竹の管とか、すり臼をつかうようになるのは、次の時代からです。

④御嶽と神々
 昔の人にとって最も心をひかれるのは、様々な自然現象、例えば、日月の運行、星のきらめき、四季のうつりかわり、雷電風雨、病気、生死などでした。それらは、目に見えない何者かの手によって動かされていると考え、御嶽(ウタキ)の神、日月、セジ(神の声を聞いたり、神を感じたりする霊的な能力)などを拝んでいのりました。人々はこれらに対して強い怖れを抱いたのです。また、野ネズミ、バッタ、ひでりをさせるもの(竜王)などは害を与える存在で、これを呪って(まじなって。のろいの言葉をかけて)その害をさけようとしました。それらがお祭の目的です。
 神は天から降りてこられたり、海上はるか向こうの国からいらっしゃったりすると考えました。
 天からこられる神は、御嶽に降りてこられます。高くひいでた数本の高いクバ(ビロウ)、その下に生いしげったバニン(クロツグ)、ススキ……。神はそのような場所を好まれると考えました。
 御嶽の外にもそれぞれの目的によってお願いをする拝所(ウガンジュ)があります。これは極めて原始的な信仰ですが、今でもこれを信じている人がいます。
 お祭りの日は村人はすべて仕事をやすみ、祭りの場所にあつまり、神女(祝女、ノロ)はお願ごとを申し上げ、村人たちは酒をつくり、様々なごちそうを神に捧げ、自分たちもそれを食べて、歌をうたい手拍子を打って舞い踊り、一日を楽しく過ごします(この項続く)。

【原文】
四、部落の生活と文化 
 部落(村といいましょう)は、初め高いところにあったがだんだん平地におりてきます。つまり前期と後期にわかれるのですが、ここではまとめてお話しします。
     この時代のことは、オモロという古い時代の歌とか、古い書きも
    のとか、今まで伝わるお祭り、叉は村のあとなどを材料としてしら
    べることが出来ます。
 村の中心は根所(ねどころ)(根尾ともいう)という家で、そこの男主人が共同のしごとのさしずをしたりする。しかし、かれが村の主人で村人はかれのけらいではありません。井戸ほり、舟はぎ、家立て、種子まき、いね刈り等、村人が共同でやるしごとの世話をやるだけです。
 その時代は、祭りが今よりもはるかにおもんぜられています。そのわけはあとで話しますが、祭を行う人は女でその民俗は今日までそのまゝつゞいている所が少くありません。その人は根所の娘(又は近親の娘)の中からえらばれ、根神とよばれました。
 村人の間には貧富の差はあまりなく、上下の階級もありません。しかしこの根所の主人と根神はおもんぜられ又けいけんをつんだ年上の人もおもんぜられました。
 米作の技術についてはよくわかりませんが、いねはぢきまきで、年二回とったと思われます。
 鉄のすき・くわはありません、はじめは石器・木器をつかっています。
牛・馬がいつごろ入って来たかわかりませんが、早くから牛を耕作につかっています。水田に牛をいれて田をふむことをやらせる。馬も早くから乗用、駄用につかっています。
 いねは穂をつみ、わらはそのまゝにしておきました。いな穂をそのまゝ、木臼に入れ竪杵でつき籾をおとし玄米にします。竹の管とか、すり臼をつかうのは次の時代からです。
 昔の人にとって一ばん心をひかれるのはいろいろの自然現象、例えば日月の運行、星のきらめき、四季のうつりかわり、雷電風雨、病気、生死等で、それらのものは目に見えない何者かの手によってうごかされていると考え、これにたいしてつよいおそれをいだき、これを拝んでいのり、又はまじなって(のろいの言葉をかける)その害をさけることがお祭の目的です。拝まれるものはお岳の神、日月、セヂ(霊的な力)などで、害をあたえるものは、野ネズミ、バッタ、ひでりをさせるもの(竜王)などと考えました。
 神は天からおりるのもいるが又海上はるかの国から来るのもいると考えました。
 天から下りる神はお岳におりる。高くひいでた数本の高クバ、その下に生いしげった黒ツグ、スゝキ、かような所は神のこのむ所と考えました。お岳の外にもいろいろの拝所があります。こゝでもそれぞれの目的によってお願いをします。要するにきわめて程度のひくい信仰ですが今までも(ママ)これを信じているのがいましょう。
 お祭りの日は村人はすべて仕事をやすみ祭りの場所にあつまり、神女はお願ごとを申し、村の人たちは酒をつくり、いろいろのごちそうを神にさゝげ、自分たちもたべて、歌をうたい手拍子をうってまいおどり、一日をたのしくすごします。
 この時代のうたをすべてオモロといいます。十六世紀から十七世紀にかけて、三回にわたって各地のオモロをあつめた本(オモロ草紙廿二巻)がありますが、沖繩・大島の古い歴史を知ることの出来る一ばんたしかなものです。その歌の中には文学としてもすぐれたものが少くありません。

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