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なにわの近現代史 Part 1 ⑦「元祖アイドル・娘義太夫の大スター」

 上方落語の『軒づけ』に登場する連中や、『寝床』でへたくそな一節を披露するの旦那さんに象徴されるように、歌謡曲が大衆に広がるまで、浄瑠璃(上方では専ら義太夫節を指します)は庶民の娯楽のひとつでした。 中でも娘義太夫(今日では女流義太夫、女義といいます)は、明治中期から大正期にかけて、 絶大な人気を誇っていました。若くて美しい女性が、情を込め、時には髪を振り乱して語る姿は昨今のアイドル顔負けで、多くの男性ファンが魅了されました。時には楽屋や自宅におしかけ、彼女たちの乗った人力車を、文字通り走って追いかけたといいます。 この娘義太夫ブームを作ったのが大阪出身 の竹本綾之助でした。明治20(1887)年に上京した綾之助は13 歳(11 歳説あり)にして、たちまちトップスターとなりましたが、明治 31 年に綾之助が結婚、引退(後に復帰)しました。
 しかしブームは終わりませんでした。
 綾之助と入れ替わるように、大阪での絶大な人気を引っ提げて上京した女性がいました。その名を豊竹呂昇といいます。 呂昇は名古屋の商家の娘で、12 歳の時から 義太夫の稽古を初めました。しばらくして、豊竹呂太夫(初世)にその実力を認められて弟子とな り、19 歳の時に娘義太夫の定席であった高津(後に千日前へ移転) の「播重席」でデビューしました。 当時東京では綾之助人気も手伝って、娘義太夫は大流行していましたが、上方では沈滞気味でした。しかし女義界では珍しい「弾き語り」 の呂昇が登場したことにより、にわかに活気づいてきました。 娘義太夫の人気は、今日のアイドルと同様、演者の容姿や演出にも左右されましたが、呂昇の人気はその容貌と共に、抜群の実力に裏付けられていました。 呂昇は明治30年に一座を結成し、曾根崎に 「萬亭」という定席を設けました。そして32年に東京進出を果たして大成功を納め、その後は、何か月も連続で興行するというハードな巡業をもこなしながら、着実にその地位を固めてゆきました。 
 第二の故郷大阪では、金持ち連中が一流芸能人を集めて開催していた「観劇会」に出演し、 それまでは低く見られていた娘義太夫を、寄席芸から芸術の域にまで高めたのでした。 そして、呂昇人気を全国的に不動にしたのが、 爆発的な売れ行きを見せたレコードでした。新しいメディアとしてのレコードが、呂昇の美声を 津津浦々へと響かせたのです。
 一方、彼女のゴシップは新聞ネタとなり、後には呂昇を主人公にした小説や芝居まで作られるなど、まさに呂昇はトップスターとなったのです。 大正 13(1924)年に呂昇が引退すると、女義界に飛びぬけたスターはいなくなりましたが、彼女が高めた娘義太夫の芸術性は後進にしっかりと 受け継がれました。
 義太夫節は昭和55(1980)年に重要無形文化財に指定され、その2年後には竹本土佐広が女義としては初の人間国宝に選ばれていま す。

連載第7回/平成10 年5月30 日掲載

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