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なにわの近現代史 Part 1 ⑩「大阪生まれの総理大臣を知っていますか?」

 大阪府出身の宰相がひとりだけいるのを知っていますか。昭和20(1945)年10 月9 日に73 歳で第44代目の内閣総理大臣に任命された、幣原喜重郎です。
 敗戦時の首相・鈴木貫太郎も現在の大阪府出身ですが、「和泉国」の時代なのでここでは除外しておきます。
 幣原は、明治5(1972)年、北河内郡門真村(現門真市)の農家に生まれました。東京帝大を卒業後、明治29 年に外交官になり、大正13(1924)年から4回にわたって外相を務め、歴史上に「幣原外交」の名前を残しています。
 大東亜戦争開戦以前に、既に外交の第一線を退いていた幣原が、宰相の印綬を帯びることを誰も予想していませんでした。「バロン・シデハラ(幣原男爵))はまだ生きていたのか」と、GHQ(連合国軍総司令部)も驚いたと言います。と同時に、外交官として国際的に知名度が高く、かつて協調外交でならした幣原は、GHQ と政府とのパイプ役でもあった当時の首相には打ってつけの人物と写りました。そこには、GHQ と協調的に動いてくれるだろうとの期待感もあったでしょう。
 内閣成立の2日後、幣原はダグラス・マッカーサー司令官に面会し、その席上、「憲法を改正せよ」との、事実上の命令を受けます。「大日本帝国憲法で民主化はできる」と公言していた幣原でしたが、マッカーサーには逆ら
えません。憲法調査委員会を設置し、松本烝治国務相をその長としました。これは決して改正を前提としたものではなかったのですが、求めに応じて翌年2月8日、「憲法改正要綱」(松本案)を提出しました。ところがマッカーサーは既に3日に、GHQ の民政局に対して、主権の制限(自衛権の剥奪)を意図したGHQ 独自の新憲法草案の作成を命じていたのです。極秘のうちに25 名のメンバーが選ばれ、そして、たった7日間で起草を終了してしまいました。メンバーには、憲法の専門家はひとりもいませんでした。戦争放棄条項(後の第9条)は、ここで初めて登場したのです。
 13 日、民政局は吉田茂外相、松本国務相らを呼び、松本案の拒絶を通告するとともに、新憲法草案を突きつけ、拒否するなら、国民に直接示す。そしてその場合、天皇の身柄は保障しないと暗に圧力を加えました。政府はその後も民政局と折衝を重ねましたが、結局受け入れざるを得ませんでした。
 マッカーサーの回顧録には、「幣原の意向で『戦争放棄条項』が入った」と書かれてあります。しかし多くの歴史学者は、これは、日本側から言い出したことにしておきたいという意図があり、信憑性が薄いと断じています。幣原自身が改正そのものにさえ反対しており、「このような憲法を受け入れたことは、子々孫々に至るまで責任を負わねばならない」と、閣議で悲痛なコメントを残しています。国際法に通じていた幣原は、占領国が英語でできた憲法を押しつけることに反論もできたでしょうが、この時、敗戦国の宰相には、他に道はなかったのです。
 主権を制限された憲法を制定した責任を負った老宰相・幣原がその後、どんな気持ちで「平和条項は自分の責任だ」と自伝に書き込んだのでしょうか。彼の苦衷は余人には計り知ることはできません。

連載第10 回/平成10 年6月20 日掲載

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