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自虐教科書の病理③ 戦前のアメリカは善玉だったのか~執筆者の都合で変わるスタンス


 教科書では、アメリカの評価は、執筆者の都合で大きくブレています。戦後は、社会主義と対決し、沖縄に軍事基地を持つ悪者として描かれていますが、戦前は、国際社会のアウトローであった我が国を、自由と民主主義の旗の下成敗した、正義の味方になっています。しかし、日米対立の萌芽は、我が国の側にではなく、明らかにアメリカの側に見られるのです。その事に触れる教科書は少ないです。
 19 世紀、アメリカはアラスカなどをロシアから購入し、強引にハワイ王国を併合し、スペインからフィリピンなどを奪取して、太平洋に向かって膨張していました。日清・日露戦争で東アジアでのヘゲモニーを確立した我が国との関係が、従来の「遠方の友好国」に留まることができなくなったのは、ある意味で必然的でした。
 1902年にアメリカは、「カラー計画」を策定しました。これは、対英作戦を「レッド」、対独作戦を「ブラック」、対墨戦争を「グリーン」、そして対日戦争を「オレンジ」という符丁で呼んだ戦略プログラムです。その当時、一貫して我が国と友好関係にあったアメリカでしたが、我が国の台頭に危機感を覚え始めていたのでしょう。
 明治38(1905)年に一旦結ばれていた、満州における鉄道の共同経営に関する約束(桂=ハリマン覚書)を、小村寿太郎外相の強硬な反対により日本側が反故にしたことなどから、アメリカは我が国が満州市場を独占してしまうのではないかという焦燥感を抱き始めました。また、我が国がフィリピンを狙っていると邪推し、明治38 年に桂=タフト協定、明治41 年にも高平=ルート協定に調印し、我が国にその気がないことを言明させています。その間、明治41 年には、示威のために、最新鋭艦隊「ホワイト・フリート」を我が国に寄港させています。もっともこの「白船到来」を我が国は官民あげて大歓迎し、日本側には相変わらず親米感情が漲っていることを図らずも示したのです。
 一方、アメリカは、日本人移民に対する差別を次第に強めてゆきました。明治39 年には、サンフランシスコで日本人自動の小学校入学が拒否され、それをきっかけにカリフォルニア州を中心に排日運動が広がりました。翌年には日米紳士協定が結ばれ、移民自粛と排日の禁止が約束されましたが、アメリカ側は約束を守らず。そればかりか、大正13(1924)年には、いわゆる絶対的排日移民法が成立されました。なぜ日本人がいじめに遭うのか。この理不尽さに抗議して、アメリカ大使館前で焼身自殺する人まで出たのです。
 実はこの大正 13 年には、日米全面戦争を想定して、あの「オレンジ計画」が改訂されています。それは、貿易路封鎖による日本孤立を念頭にしており、大東亜戦争は、ほぼそのシナリオの通りに始まっているのです。
 さらには支那事変中に、アメリカが中立義務に違反して空軍の正規兵を「フライング・タイガース」と名乗る義勇兵と偽って参戦させていたこ
とも判明しています。日米戦争は、真珠湾攻撃によって顕在化されたに過ぎず、その遠く以前からアメリカによる宣戦布告無き戦いが仕掛けられていたとも言えるのです。

連載第45回/平成11年2月24日掲載

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