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教室から消えた沖縄の歴史・仲原善忠原著『琉球の歴史』(上・下)を読む~第4章 按司の時代(2)②

2.察度王と朝貢貿易の始まり

【解説】
 前項で飛ばした部分をこの個所に持ってきた。原文は前項を参照していただきたい。とにかく時系列がバラバラなので整理をするのに苦労している。
 琉球最初の冊封については、察度のあとを継いだ2代目の武寧王(1356~1406)の1404年に永楽帝が冊封使を派遣して、中山王に封じたのが琉球最初の冊封だというのが定説のようであるが、仲原の記述に従い、察度が王号を受けたということで筆を進めた。察度の事績については、少しだけ書き加えた。
 尚、永楽帝からの停戦の奉勅については、おとぎ話口調を改めた。やはりこの本は口述筆記だったような気がする。

【本文】
 オモロには、中部の牧港の以外の港にも、外国の舟が来て貿易をしたという伝説や歌謡が非常に多くあります。日本の本土、支那、朝鮮の舟が離島の方にまで来ています。沖縄の人も、何とかして外にとび出したい気持がとても強かったようで、それに成功した浦添按司の祭度(さっと、1321~1395)は、この時代の英雄でした。
 察度は英祖の約50年後の人で、今の宜野湾市にある貧しい家に生まれました。
 そのころ浦添は沖縄の中心で、牧港はその入口でした。英祖も察度も浦添から出ており、オロモに「うらおそいや、島の親やれば」とか「うらおそいや、あぢのすで(生れる)おや国」などと謡われています。「浦そい」とは「浦々(海岸の村々)をおそう(支配する)」という意味だと言われます。 
 牧港には、鉄を積んでくる日本の商船が多かったと言います。察度はその鉄を買いとり、農民にあたえて農具を作らせました。
 ちょうどその頃、14世紀の初めが沖縄の農具革命の時代でした。原始時代以来の木製農具や石器から、どんどん鉄製農具に変わっていった時代です。鉄を鍛えて農具をつくる鍛冶など、新しい技術も伝わりました。効率よく田畑を耕せる鉄の鍬を手に入れた農民が多くいる地方が富み栄え、鉄の農具で人々を豊かにした察度が人望を得たのは当然のことでした。1349年に英祖の子孫であった西威が亡くなると、人々は察度を浦添の按司に推戴したと伝えられています。
 そして察度は最初の中山王になりました。1350年のことです。
 察度は御物城(おものぐすく。宝物庫)を建て、日本本土はもとより、フィリピン(ルソン)島、インドネシア(ジャワ、スマトラ)などにあった南方諸国に加え、明や高麗とも貿易を行い、その文物を輸入しました。
 1372年、明の洪武帝(1328~1398)の招諭使(周辺諸国に朝貢を促すために派遣される皇帝の使い)がやってきて朝貢を促しました。察度はこれに応じて弟の泰期(生没年不詳)を朝貢の使いとして派遣し、表を奉って自ら臣と称し、貢物を献上ました。
 洪武帝は、日本、朝鮮、安南(今のベトナム)、その他の南方諸国にも招諭使を送りましたが、日本だけはそれに応じませんでした。
 日本に招諭使がやって来たのは、南北朝時代のことでした。南朝の懐良親王(1329~1383)はそれを拒絶しましたが、室町幕府の第3代将軍足利義満(1358~1408)は、苦しい幕府の財政を立て直すために、天皇ではなく、自分自身が出家して明帝の臣下になるということで、勘合貿易を始めたのでした。
 洪武帝からは察度に中山王の称号が与えられ、暦、王の服、金めっきの銀印などが下賜されて、中山国は明の属国になり、正式の通交を始めました。
中山国は冊封を受けたので、形式的には朝貢をしましたが、実質的には貿易だったので、これを朝貢貿易と言います。
 沖縄からの主な貢物(輸出品)は、馬、硫黄で、後には日本本土や南方の産物が多くなります。明からの下賜の品(輸入品)は、磁器、陶器、鉄器などです。
 明では、皇帝の徳を慕って、自ら臣下となった中山王が、遠方からはるばる貢物を持って来たととらえます。王は皇帝よりも下位ですから、上位の者が与える返礼は、貢物よりも立派な品物をたくさん与えなければなりません。そのため中山国はいつも「貿易黒字」で、莫大な利益を得ました。
 また、それとは別に、通常の貿易も盛んになっていきました。ここでも、朝貢国だということで優遇されました。輸出品を明の政府が高値で買い上げてくれます。また、明で買い付けた品物を沖縄に持ってくると、とても高い値段で売れるので、こちらも大きな利益をもたらしました。1374年には、明の使いが陶器7万、鉄器1千を持ってきて、馬40頭を買って行ったという記録が残っています。
 明は解禁政策(鎖国)をとっていたので、臣下にならなければ貿易を許しません。察度は臣下と称することで、名を捨てて実を取り、貿易を通じて大きな利益をおさめたということです。

【原文】
 中部の牧港の外、外国の舟が来て貿易をしたという伝説・歌謡はひじょうに多く、中国・日本・朝鮮の舟が離島の方にまで行っているから、沖繩の舟も何とかして外にとび出したい気持が大へんつよかったようで、これに成功したものこそ当代の英雄です。その英雄が浦添按司祭度です。
 察度は英祖より五十年あとの人です。「そのころ牧港に日本の商船が鉄をつんでくるものが多かった。かれはその鉄を買いとり農民にあたえて農具をつくらせた。農民はよろこび、彼を浦添の按司におしあげた」と伝えられます。
 この時代、十四世紀のはじめが沖繩の農具革命の時代で、田畑をたがやすくわが、木器・石器からどんどん鉄器にかわって行った。新らしい(ママ)技術、鉄をきたえて農具をつくるかじやもできました。能率のよい鉄のくわを手に入れた人、それの多い地方が富みさかえるわけで、察度というすぐれた人物が人望をえて、英祖の子孫にかわって浦添の按司になったのは鉄のおかげです。
    浦添はその時代、沖繩の中心で、牧港がその入口です。英祖も察度
   もこゝから出ており、オモロに「うらおそいや、島の親やれば」とか
   「うらおそいや、あぢのすで(生れる)おや国」などとうたわれてい
   ます。浦そいは浦々(海岸の村々)をおそう(支配する)意味だと言
   われます。
 中国(明)の皇帝は一三七二年に沖繩に使をやって察度をまねいたので察度はこれにおおじ(ママ)、弟の泰期をつかわしました。
 その時朝鮮・日本・安南その他の南方諸国にも使をやったが、日本の外はみな行っています。皇帝はよろこんで察度に中山王の称号をやり、暦・王の服・金めっきの印などをおくる外、こっちの貢物の返礼として向うの品物をくれました。沖繩からの貢物は馬・硫黄がおもな品物で後にはいろいろの日本品、南方の諸産物が多くなって来ます。向うのものは、磁器・陶器・鉄器がおもです。
 二年後に向うの使いが陶器七万鉄器千をもって来て馬四十頭を買って行きました。
 この一二年のできごとはまだ文化のひくかった沖繩の人々にとっては大きな事件です。使いに行った人々も、見るもの聞くことすべてがおどろきでないものはなかったでしょう。衣・食・住をはじめとしてあらゆるものが、けたちがいにすゝんでいることにおどろいたにちがいありません。
 又明の使いがもって来た陶器・磁器のすばらしさ、鉄器-おもに鍋・釜というが、農具もあったでしょう-の便利さ! 中国に対しふかい興味と尊敬をかんじたことは高い文化に対するあこがれと実利です。航海のきけんをおかして貢物をもって行った理由は、向うの実用品に対するつよい欲求のあらわれです。こわれやすい土鍋にかわる鉄鍋、木のくわにかわる鉄くわ、これを手に入れられる国が明のくにです。
     察度をほめたオモロに、「謝名もいは、誰(た)が生(な)もやる子
    (くわ)が…百(もも)ちゃら(百按司)のあぐで居たる、くちや口…
    謝名もいしゆあけたれ…」というのがあります。
     「謝名殿(もいは思いの意で敬愛を示す)は、誰が生んだ子か、
    すべての按司が待ちに待っていた、くちやの口を謝名殿こそあけた
    れ」ということです。くちやはうら座敷のことですが、もとは大切
    な物を入れておく部屋のこと。
 察度はその後ほとんど毎年、進貢しているので、島尻の大里按司、承察度も(一四八三年。編註。最初の入貢は1380年なので、これは誤植だと思われる)これにならい明はこれを南山王とみとめ、中山王とおなじようにあつかいました。当時三地方の王がたえず攻争しているので、明は使をやり三人に「琉球の三王つねに争い、農をすて、民をいためているのは、よくないではないか。すぐに争いをやめ人民を大切にしろ…きかなければ承知しないぞ…後悔するな」とさとされた。三王ともかしこまり使を出してわびました。国頭の伯尼芝(はにじ)按司もこの時はじめて使を出し、三王ともそれからたびたび使を出しています。
 一三九三年に中山と南山は三人ずつの学生を北京におくり、大学に入れたが、その後も学生が行っています。
 この時には、すでに日本から仮名文字がつたわっており、又一三九一年には福建から中国人が久米村に移住していますから、学問もぼつぼつはじまっています。
 察度は一三八九年に朝鮮へも使をやり、その後百年の間に三十回以上も朝鮮と行き来しています。安南・シャム等南方との交通もはじまっています。

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