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教室から消えた沖縄の歴史・仲原善忠原著『琉球の歴史』(上・下)を読む~第2章 部落時代②

2.部落(マキヨ)のはじまり

【解説】
 「マキヨ」ということばが登場し、仲原は日本でも血縁のことを「マキ」というと説明しているが、調べてみるとこの語は東日本に分布しているらしい。仲原は関東に住んでいたので、この語を耳にしたのかもしれない。筆者は大阪出身だからか、この言葉は一度も耳にしたことがない。東日本でも今では一般的には使われていないと思うがどうだろうか。
 特に後半部分で、言い回しが分かりにくいところが多かったので、文意を損ねないように、整理整頓を試みた。
 仲原の癖のようだが、村の成立を書いておきながら、稲作の起源にさかのぼらせるところで終わっている。今回は本文の構成を重視しているので、そのままにしておくが、いずれ、時系列的に並べなおして整理したいと思う。

【本文】
 日本本土、沖縄の稲作は水田で始まりました。泉や川のほとりにある平地に水を引いて、田をつくりました。陸稲(おかぼ)の栽培はあとからはじまっています。
 部落は水田に近く、風や大水の害のない、小高い所とか、山の陰などが選ばれました。魚や貝を取る海に近い場所ならば最高です。
 古い部落のあとや、昔から続いている部落はそういう所にあります。奄美大島や沖縄には古い部落のあとが各地に残っています。
 初めの部落は、親戚同士が集まってできた小さな血縁団体です。大昔の部落のことを「マキヨ(マチユ)」といいました。個々のマキヨは、「アラサキのマキヨ」とか「中のマキヨ」などと呼んでいました。「マキヨ」とは、東日本で使われている、血縁を意味する「マキ」ということばからきています。「マケ」「マギ」「マゲ」というところもあるようで、語源ははっきりとしていません。
 だんだん人口が増えてくると、丘の上で田や畑を作っていたマキヨでは、食料が不足してきました。一方で、稲が伝わって500~600年もたつと、水田を作る技術もすすんできて、今まで手つかずだった土地にも水田が作られるようになりました。海岸の近くには水田になる土地がたくさんあります。川の水で流された泥が堆積したところや土地が隆起した所もあります。多くの人が協力すれば立派な水田となるところがあちこちに見つかりました。そういう平地に各地のマキヨから人が集まって新しく水田をひらくようになっていきました。 
 そこは、親類だけでできたマキヨではなく、より多くの人々が集団を作った「村」になりました。
 村は、血縁団体ではなく地縁団体です。同じ土地にすむ人々の団体です。そのような村があちこちに誕生して、様々な社会的活動もおこなわれるようになりました。
 ところで、人々を大きな集団にしたのは稲作ですが、一体、沖縄の稲作はどこからどのようにして入ってきたのでしょうか。

【原文】
二、部落のはじまり
 日本および沖繩でイネをつくりはじめたのは水田で陸稲(おかぼ)はあとからはじまっています。泉や川のほとりにある平地に水をひき田をつくりました。
 部落は水田に近く、風や大水の害のない、小高い所とか、山のかげなどです。魚や貝を取る海に近ければなおさらよろしいです。
 ふるい部落のあとや、昔からつゞいている部落はそういう所にあります。大島・沖繩の各地に古い部落のあとがのこっているから例はあげません。みなさんが自分でしらべてみればわかります。
 初めの村はたいてい親せきどうしの小さい部落で血縁団体です。部落の名もアラサキのマキヨ(マチユ)とか中のマキヨとかよんでいました。
     マキヨは血縁の意味ですが、これが村の名にもなっています。日 
    本では今でも血縁のことをマキといいます。
 ところが、だんだん人口もふえ丘の上の田や畑では食料が不足して きます。海岸近くには水田になる土地がたくさんあります。五・六百年のあいだには田をつくる技術もすゝんできます。川の水でながれたどろがつもった所もあり、土地が隆起した所もあり、多くの人がきょうりょくすればりっぱな水田となるところがあります。
 そういう所にあちこちの部落から人があつまって新らしい(ママ)水田をひらき村をつくる。かようにして平野に新らしい村が出来ます。この村の人々はもはや親類だけではないのでマキヨといわず村といいます。
 村人は血縁団体ではなく地縁団体です。即ちおなじ土地にすむ人々の団体です。かような村があちこちに出来て、いろいろの社会的活動もおこなわれるが、それを話す前に一体この米作はどこからどうして入って来たかということを考えて見ましょう。

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