見出し画像

教室から消えた沖縄の歴史・仲原善忠原著『琉球の歴史』(上・下)を読む~第11章 18世紀以降の産業と生活④

4.経済と金融

【解説】
 模合ということばは、在米時代、沖縄県出身の人から聞いた。本文にも付け加えたが、内地でもよく似たシステムの「頼母子講」や「無尽講」があったが、歴史用語であり、その民間金融の先には非合法の「ねずみ講」(無限連鎖講)があるので、ネガティヴな感じを受けたが、沖縄ではそういう悪いイメージはないのだろうか。
 この個所は整理するところが少なく、比較的まとまっていた。模合を始めたとされる蔡温に対する批判が仲原らしい。例によって「問題」は意図がつかめないので、改変した。

【本文】
 薩摩の支配が進むと、貨幣経済も盛んになりました。古代にはどこの国でも物々交換が中心ですが、だんだんと交換の仲立をする物、すなわち貨幣が必要になってきます。日本本土や沖縄では、米がその役目をはたしていました。しかし本土では、流通経済の発展に伴い、鎌倉時代からは貨幣を使うことが急速に広がり、江戸時代の半ばを過ぎると、武士の給料も、それまでの米ではなく、お金でもらうことも多くなっていました。
 薩摩が沖縄に来た頃には、既に貨幣経済が進んでいたので、沖縄でもお金を使うことが次第に多くなってきました。
 農民からの税も、米、粟、砂糖、織物などの現物の他、お金も納めさせるようになりました。お金を払えなくなった農民は、高利で金を借りて納めました。すると、借金を返せなくなり、下男として売られる者も出てきました。高利貸しには田舎の金持ちもいましたが、首里の貴族(お殿、殿内)や那覇の金持ちが多かったようです。那覇には質屋があり、那覇の人にお金を貸していたのですが、それがだんだんと地方の人にも及んでいきました。
 貨幣経済の発達により、これまでのように家柄や身分だけでなく、財産で重んじられるものが次第に多くなってきました。平民であっても、16万貫出せば最下級の士族に、32万貫出せばその上の位の士族になることができたので、金を出して士族になった金持ちも多くいました。
 蔡温の時代に、貯金と借金、つまり、金融のための模合(もあい)という沖縄独特の風習が生まれました。毎月、仲間がお金を出し合って資金を積み立てて、順番が回ってきたら、そのお金を総取りするという民間金融の方法です。本土でも、頼母子講(たのもしこう)や無尽講(むじんこう)といった、よく似たシステムがありましたが、銀行が発達するとすたれてしまいました。しかし沖縄では、形を変えて今も残っています。
 「本国の農夫・商工はそれぞれの業をはげみ財産をたくわえているから凶年になってもこれを防ぐことができる。我々士・臣は地頭になり領地をいただだいているので士の業をはげみ、教養があり礼法も知っている。ただないのは財産だけである」と言い、摂政、三司官と相談し、20~30、または40~50石で米の模合を始めたと伝えられています。
 最高の位と家柄があり、最高の収入を得ている摂政、三司官が、さらに財産をたくわえようとしたのです。役人の営利を厳しく取り締まった羽地朝秀の時代より、役人たちが俗化していることを示しています。
 人々もこれをまねて模合をはじめ、高利貸しの金利が高かったことから、お金の模合もさかんになっていきました。法律で取り締まりが行われるようになっても、昭和の初め頃までは、沖縄ではこれがおもな民間の金融方法でした。

【問題】
 1.農村の生活と都市の生活を表にまとめてみましょう。
 2.儀間真常について調べてみましょう。
 3.貨幣経済は沖縄にどのような影響を与えましたか。
 4.現在、模合はどのような形で行われているか調べてみましょう。

【原文】
 島津の支配になるとだんだん「おかね」で物を売買することがさかんになってきます。
 古い時代はどこの国でも物々交換ですが、だんだん交換のばいかいをする物、すなわち貨幣が必要になります。日本や沖繩では「米」がその役目をはたしていました。
 薩摩は沖繩よりも経済がすゝみ銭で物の売買をすることが多かったので、さつまとのかんけいが前よりも深くなるにつれ、銭をつかうことがしだいに多くなって来ます。
 農民から取る租税も米・粟・砂糖・織物等のほか銭もとるから、農民はどうしても銭を手に入れなければならない。納税のために高い利子をはらって金をかり、そのために人の下男となるのも少くありません。
 金を貸す人は田舎の金持ちもいるが、首里の貴族(お殿・殿内といった)や那覇の金持ちが多かったようです。那覇には質屋があり、おもに那覇人に金をかしていたのがだんだん地方の人にも及んで来ます。このようにして家柄や身分でもって社会におもんじられる者の外に財産でもっておもんじられる者がしだいに多くできます。お金のある平民は十六万貫だせば一ばん下の士族に、三十二万貫だせばその上の士族になることができるので、これを買った人も少くなかったといわれます。
 貯金と借金、即ち金融のために今でも行われている模合をはじめたのも蔡温です。これをはじめたわけは「本国の農夫・商工はそれぞれの業をはげみ財産をたくわえているから凶年になってもこれをふせぐことが出来る。われわれ士・臣は地頭になり領地をいたゞだいているので士の業をはげみ、教養があり礼法も知っている。たゞないのは財産だけである」といい摂政三司官相談して二三十石又は四五十石づゝの米模合をはじめた、というのです。
 外の人々もこれをまねて金模合もさかんになっていって明治時代までおもな金融方法でありました。注意すべきことは、最高の位と家柄をもち最高の収入をえている摂政三司官が、さらに財産をたくわえようとすることで、役人の営利をきびしくとりしまった羽地の時代よりも役人たちが俗化していることです。

【問題】
 一、砂糖は今よりもはるかに有利な産業でした。どうしてですか。
 二、どうして砂糖を制限しましたか、今後はその必要はないと思いますか。
 三、儀間真常が人民の恩人だというのは、どういうわけですか。
 四、模合のことを知っていますか。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?