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自虐教科書の病理⑧ 日本軍と国際法〜連合国軍に違法行為はなかったのか

 昭和16(1941)年12月8日、山本五十六海軍大将率いる連合艦隊が真珠湾などを攻撃し、政府は英米に対して宣戦布告しました。殆どの教科書は、これを「奇襲攻撃」と記しています。フランクリン・ルーズヴェルト大統領もわが国を「インモラル・ギャングスター」だと罵倒しました。
 結果的には「奇襲」になってしまったのですが、政府にはその意図はありませんでした。なぜなら宣戦布告を伝える電報は、攻撃の前にワシントンDCの日本大使館には届いていたからです。既に戦争回避を目指していた日米交渉は破綻しかけており、一触即発の状態でした。しかし大使館員は緊張し
ていなかったようです。事前に「これから重要な電報を送る」というメッ
セージも届いていたのですが、その日館員たちは当直さえ置かず、業務を終えて、転勤になる同僚の送別会を開いていたというのです。翌朝出勤した館員は、配達された電報の束に驚きます。暗号を解読し、それが宣戦布告
を意味する文書だということがわかり、慌てて翻訳と清書を始めましたが、ついに間に合いませんでした。このように国際法違反の「奇襲」攻撃をしてしまった責任は、ひとえに外務省の不手際にあるのです。しかし彼らは処分されませんでした。
 もっとも、近代の戦争で、宣戦布告を行ってから開戦したという例は殆どありません。だから、ことさらに日本軍による「奇襲」を強調することも、自虐史観に通じることです。責めるのであれば、外務官僚の不手際をこそ責めるべきでしょう。
 実は、日露戦争の時もロシアから非難がありましたが、政府はこれを一蹴しています。また当時ハワイは米国の正式の州ではなく、いわば植民地だったので、国際法上、攻撃に際して宣戦布告の必要はない、とする見方もあります。ところが残念なことに政府は、米国の非難に対して、日露戦争の時のような反論もせず、また大使館の失態を認めて謝罪もしなかったのです。
 「奇襲」攻撃により、戦争に否定的だった米国世論に火が付きました。「リメンバー・パールハーバー」のフレーズは、米国人を強く団結させま
した。
 ところで、大戦末期にこんなエピソードがあります。昭和20年4月12日、ルーズヴェルト大統領が死去します。この時日本政府は、鈴木貫太郎首相の名で米国国民に対して「弔電」を打っているのです。もちろん、こんなことは国際法上の義務ではありません。しかし鈴木首相は死力を尽くして戦っている相手の親分の死とはいえ、礼を失することを潔しとしなかったのです。
 話を国際法に戻しましょう。
 日本軍だけが国際法を無視していたというのは大きな誤りです。例えば、連合国軍の間にも「捕虜虐待」はあったのですが、罰されたのは枢軸国側だけです。わが国でも敗戦後、BC級戦犯として沢山の方が人身御供とされ、死刑になりました。「捕虜に木の根を食べさせた」という罪状で死刑になった人がいます。「木の根」とはゴボウのことでした。もちろん日本軍兵士も同じものを食べていたのです。このような軍事裁判が国際法に合致しているわけがありません。ところが連合国側の残虐行為は、広島、長崎への原爆も絨毯爆撃による東京大虐殺も、一切不問でした。まさに「勝てば官軍」です。
 日本軍にも戦時国際法違反があったことは、残念ながら事実です。しかし、それは連合国側にもあったことで、ことさらに我が国だけを糾弾
することは、まさに自虐なのであり、それは平和教育の妨げにこそなれ、推進につながると考えているとしたら大きな勘違いです。

連載第50回/平成11年3月31日掲載

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