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教室から消えた沖縄の歴史・仲原善忠原著『琉球の歴史』(上・下)を読む~第10章 羽地朝秀と蔡温⑦

6.強制移住の悲劇と植林政策

【解説】
 蔡温の改革の続きなのだが、その中で蔡温の評価が分かれる、強制移住と植林策についてまとめられている。強制移住については、部落の名前だけではどの島かもわからないので、調べてそれを補った。時々こういうところが本書にはある。また、文末の羽地朝秀と蔡温の名前の表記についての説明は、ここで書くべきこととも思えないので、前回の冒頭に挿入しておいた。相変わらずこれが、口述筆記だったことを感じさせるものだ。問題は、原著者の仲原にではなく、編集者にあったと思う。
 沖縄史では一般に蔡温への評価が高いように思われるが、こうして冷静に見てみるとその理由が分からない。国民の90%を占めるであろう農民を奴隷化した人物である。その裏には、久米の人々の祖先美化があるような気がしてならないのである。歴史を歪めて美化をすればそこから学ぶことはなくなってしまうだけでなく、精神が堕落すると筆者は思う。隣国を見ればそれがよくわかる。沖縄は日本である。そうなってはいけない。否、させてはいけないのである。

【本文】
 農民が食料のいもの栽培には熱心でも、米の増産に興味を持たないので、蔡温は増産させる方法として様々な手を打ちました。ひとつは、酒その他の製造の自由ですが、それ以外に、水田を開墾した百姓に位を授けること、そして、八重山では開墾のための強制移住を行いました。
 水田のできるところに新村をつくり、住民を強制的に移住させましたが、その多くはマラリヤ地帯でした。黒島から海をこえて竹富島の野底村に400人あまりの人々が移り住みましたが、開拓から150年後には全滅しています。その悲しい思いは、歌になって残っています。また、波照間島から西表島の崎山へ強制移住させられた人々の嘆きを歌った崎山節は、よく知られています。
 蔡温の最大の功績は、山林に関する法を作ったことです。蔡温は山林のことに詳しく、役人を置き、厳しい罰則をもうけて盗伐を防止する一方、植林を奨励して山林保護に努めました。

【問題】
1.島津はどうして琉球政府に「命令」を出したのでしょうか。
2.羽地朝秀の政策と蔡温の政策を比較し、それぞれの良かったところ、悪かったところをまとめてみましょう。

【原文】
四、米の増産、農民が食料のいもに心をひかれ米の増産に熱がないので、増産させる方法としていろいろの手をうちます。一つは前に話した酒その他の製造の自由、二は水田を開いた百姓に位をやること、三は八重山での強制移住です。
 水田の出来る所に新村を立て住民を強制的にうつしましたが多くはマラリヤ地帯で、黒島から海をこえて野底にうつった四百人あまりの人々の悲しい思いはいろいろの歌になってのこっていますが、この野底村は百五十年の後にはぜんめつしています。崎山ぶしは波照間から西表の崎山への移住のかなしさをうたったものです。
五、山林政策、都市繁昌策とならんで有名なものは山林法です。
 蔡温は山林のことにくわしく、山林の保護にかんする法律をつくり役人をおき、きびしい罰則をもうけて盗伐をふせぎ、又植林をしょうれいし、りっぱな成績をあげました。これは蔡温の一ばん大きな功績です。
六、蔡温は又自分の考えをてっていさせるために御教条というものをつくり、これを一ぱんの人に行きわたるようにしました。
 以上が蔡温の政治のあらましです。
 (蔡温と向象賢は中国式の名(唐名)で、具志頭文若と羽地朝秀が沖繩名ですが、向(しょう)はよみにくいから一人は唐名一人は沖繩名にしました)。
【問題】
一、島津の命令をどう思いますか。
二、節用愛人というのはどういうことですか。
三、植林植樹はどういう利益がありますか。

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