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教室から消えた沖縄の歴史・仲原善忠原著『琉球の歴史』(上・下)を読む~第10章 羽地朝秀と蔡温④

4.2つの改革の間に起こった問題

【解説】
 だらだらと話が続くので、羽地朝秀と蔡温の間の時代について、切り取ってまとめた。例によって文の整理が必要だったので、手を入れた。ここも、もう少し詳しくてもよいかもしれない。

【本文】
 羽地朝秀の改革の後は、開墾、農具・農業技術の進歩、食料(サツマイモ)の増産がありました。それに伴って人口が増え、貨幣の流通も多くなり、田舎の村にもゆとりが生まれました。その一方で、農村でも都市でも貧富の差が大きくなり、農村では広い私有地をもつ富農もあれば、子供を売り、自分自身を売るような貧しい農民もでてきました。 
 羽地の改革から50年も経つと、新たな問題も発生しました。それは首里の下級士族についてです。
 この間、耕地面積も人口も2倍に増加し、また木工、金属細工、漆器、陶器などの技術も発達し、織物も盛んになりました。貨幣も流通し、首里や那覇には、物を売り買いする市場も出来ました。
 そんな都会で暮らす士族も、農民同様、人口も多くなっていました。ところが、そのために全ての士族が役人になることはできなくなり、失業した士族が増えてきました。いわゆる「牢人」です。これが増えれば増えるほど社会の不安は大きくなり、政権をゆるがしかねません。実際、江戸幕府も、不満を持った牢人の対策に頭を悩ませていたことがありました。
 牢人は、都会で栄えてきた商工業を公然とすることはできません。しかし、密かに行う者も増えてきました。羽地の時代から70年もたつと、社会がずいぶん変化してきたのです。
 そんな時代に登場したのが、蔡温です。

【原文】
 羽地の改革から五六十年のあいだに、食料(いも)の増産、開こん・農具・農業技術の進歩があり、人口もふえ貨幣の流通が多くなり貧村もゆとりが出来てきます。しかし又農村でも都市でも貧富の差が大きくなり、農村では広い私有地をもつ富農もあれば子供を売り自分自身を売るような貧しい島民も多くなってきます。
 これにもまして大きな問題は都会、ことに首里の下級士族の問題です。
羽地時代から七十年のあいだに、士族の人口もずっと多くなったが、これがすべて役人になることは出来ない、失業の士族がふえつゝあります。
これがふえればふえるほど社会の不安は大きくなり、王家を中心とする封建政治はくずれる外ありません。
 羽地の時代とこのごろとは田畑のひろさも人口も二倍となり農産もかわり木工・金属細工・漆器・陶器などの技術もすゝみ織物もこのころはさかんになります。
 お金も流通し、首里・那覇には物を売り買いする市場も出来ます。しかし士族はこれらの商工業を公然とはやれませんが、これをやっている人がだんだんふえて行き、七十年前の羽地時代とは世の中がまるでちがって来ています。
 この時代に出たのが蔡温です。

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