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教室から消えた沖縄の歴史・仲原善忠原著『琉球の歴史』(上・下)を読む~第16章 王国末の社会と政治④

4.農民から収奪していた王国末期の政治

【解説】
 王国時代を美化して決して語られない、無能な王府の様子が、わかりやすい実例とともに示されている。これで一揆が起こらなかったのが不思議なくらいだ。琉球政府が何をしたのか、何をしなかったのか。この単純な問いに、専門家は真剣に答えるべきだろう。仮にそれが、日本政府による近代的支配によって180度転換され、農民や下層市民に大いなる希望を与えたという証拠になったとしてもだ。歴史を歪めて美化することに、何の意味もないことに、そろそろ気が付かねばならないときだ。

【本文】
 王国の政治は良心的に行われていたかというと、残念ながら、否という外はありません。
 王国時代、貨幣は銅と鉄の一厘銭を同価で通用させていました。ところが薩摩が攘夷のために大砲を作ることになり、にわかに銅銭を買いあつめました。そのため銅の値段が高くなり、市場は混乱しました。
 1861年から明治元年までの8年の間に、鉄銭の価値はどんどん下がっていき、ようやく32分の1にまで下落して落ち着きました。
 都市の住人はこの「鉄安銅高」によって利益を得ましたが、農村ではたいへんな損害を受けました。
 砂糖は専売なので王府が強制的に買上げていました。その公定価格は150年間据え置きで、100斤(60㎏)80貫(1円60銭)で買い取っていました。銅銭ならまだしも、王府は鉄銭で支払っていました。当時市価160貫(3円20銭)のものを、鉄銭80貫(実質5銭)で、強制的に買い取っていたのです。これではただ同然です。
 農村を領地としている地頭たちは、領地から野菜、その他の物を買入れる権利をもっていました。これもやはり、市価の半額相当の、150年前の定価で、しかも鉄銭で支払ったので、実質64分の1、市価の約1.6%の値段で買い上げていたということになります。良心的な人も中にはいましたが、多くの地頭はそうやって私腹を肥やしていました。
 王も、それに仕える人々も、農民の困窮には全く無関心でした。このような政治のやりかた対して、農民は不満を募らせ、首里の役人を軽蔑するようになっていきました。恵まれない下級士族も上層部には強い反感を持っており、王朝末期の世の中には不穏の空気が流れていました。

【問題】
 1.役人の登用試験には問題がありました。その問題点と解決策をまとめてみましょう。
 2.王朝末期の人々の不満はどこにあったでしょうか。
 3、王朝末期、王や役人たちはどのような政治改革をすればよかったでしょうか。

【原文】
四、無力な政治
 政治は良心的に行われていたかというと、ざんねんながら、否という外はない。これも例をあげましょう。
 その時代の貨幣は銅と鉄の一厘銭を同価で通用させていました。ところが外国との問題がおこり、さつまでは大砲をつくるため、銅貨を買いあつめたので銅のねだんは高くなり、物価はみだれてしまいました。
 一八六一年から明治元年までの八年間に鉄銭と銅銭のひらきは、ぐんぐん大きくなり、一対三十二でようやくおちつきました。
 都会の人は、それによってかえって利益をえているが、農村はたいへんな損害をうけました。
 砂糖は政庁で強制買上げですが、その公定価格は百五十年前のままにすえおき、百斤八十貫(一円六十銭)で買い取っていました。これも銅銭なら、まだよいとして鉄銭ですから、ひどいねだんです。市価百六十貫(三円二十銭)のものを、鉄銭八十貫(五銭)で、強制的に、買い取っています。
農村を領地としている地頭たちは、領地から野菜、その他の物を買入れる権利をもっていました。これもやはり、百五十年前の定価(市価の半分)で、しかも鉄銭(三十二分の一)ときめたから、けっきょく六十四分の一のねだんしかはらわないのです。
 しかし、地頭の中には、このようなひどいことを、一切しない良心的な人もいたといわれます。
政庁のこのような政治にたいして、農民は、ひじょうな反感をもち、政庁の役人をけいべつするようになってきました。
農民ばかりではなく、下級の士族たちも、つよい反感をもち、世の中の空気が、けんあく(ママ)になってきました。

【問題】
一、沖繩の封建時代に、失業者がでたのは、どうしてでしょうか。
二、前に話した老人についての感想をのべてみなさい。
三、どうして貧富の差ができるようになったのでしょう。そのわけを話しなさい。

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