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明治憲法の素顔 Part 1 ③「内閣の命運と軍部大臣」

 明治憲法下でも、内閣総理大臣は組閣に際して、原則的には自分の意のままに閣僚の人選を行いました。しかし、例外がありました。それは、軍部大臣(陸軍・海軍大臣)です。軍部大臣に関しては、陸海軍からの推薦を受けて決定するという仕組みでした。軍部大臣は、他の閣僚にはない特権を持っていました。これは、軍機・軍令に関しての上奏(帷幄上奏)は、閣議に諮る必要がなく、天皇から内閣に下付されるもの以外は、軍部大臣の先決であり、総理に報告するだけでよいことになっていたのです。
 この特権を守るため、明治33(1900)年に第2次山県有朋内閣は、軍部大臣現役武官制(以下、現役制とします)を定めました。この年、伊藤博文を党首に迎えて立憲政友会が成立していました。政党勢力の伸張が、軍の危機感を助長していたので、山県は「軍部大臣は現役の将官に限る」という慣例を制度として確立させたのです。
 大正元(1912)年、第二次西園寺公望(立憲政友会)内閣の時のことです。陸軍の勢力への対抗上、海軍予算を重視していた西園寺は、陸軍の2個師団増設要求を後回しにしました。それに納得しなかった上原勇作陸相は大正天皇に帷幄上奏し、単独辞職してしまったのです。そして陸軍が後任を推薦しなかったため、西園寺内閣は総辞職せざるを得ませんでした。
 これがきっかけとなり、第1次護憲運動が繰り広げられました。その後に成立した第1次山本権兵衛内閣は、大正2年、政党勢力からの批判が高まった現役制を撤廃し、予備役・後備役の将官でも軍部大臣に就任できるようにしました。
 昭和 11(1936)年の2.26 事件後に成立した広田弘毅内閣の時に現役制は復活します。つまり民主化への可能性を秘めていた大正デモクラシー期には、現役現役制は眠っていたということになります。
 現役制復活の理由は、2.26 事件で予備役に編入された陸軍皇道派の将官が、政治の表舞台に復活しないようにという「粛軍」が目的だとされましたが、その直後、陸軍はこれを早速悪用しました。昭和12 年1月、広田内閣が総辞職すると、元朝鮮総督の宇垣一成に組閣の大命が降下しました。ところが、大正時代に軍縮を断行し、また昭和6年に起こった陸軍の桜会によるク
ーデター未遂事件(3月事件)の際に首相候補に擬せられながら、中止指令を出したということで、陸軍出身でありながら陸軍の意のままにならない人物と映っていた宇垣に対し、陸軍は大臣を推薦せず、宇垣内閣は流産に終わりました。現役制がなければ、予備役の宇垣が陸相を兼任して、組閣することもできたのです。
 大正3 年に清浦奎吾が組閣できなかったときも、昭和15 年に米内光政内閣が総辞職したときも、この制度が悪用されました。
 明治憲法下では、軍から大臣が推薦されなければ、内閣は成立しませんでした。また、軍部大臣が単独で辞表を提出し、後任の推薦を得られなければ内閣は瓦解したのです。つまり明治憲法下では、この現役制によって、内閣の命運を軍が握っていたとも言えるのです。

連載第13 回/平成10 年7月11 日掲載

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